週刊東洋経済(2017年8/12-8/19合併号)に、「抗認知症薬の功罪」というタイトルの記事が掲載された。
記事を一部抜粋しながら、所感を述べてみる。
個々の状態に応じた適量投与を意識したい
記事では、
- 抗認知症薬の少量投与の是非
- 抗認知症薬増量規定とレセプト審査について
- 抗精神病薬の危険性について
などについて、「抗認知症薬の適量処方を実現する会」の意見と「日本老年期精神医学会」の意見を、両論併記で載せていた。
「抗認知症薬の適量処方を実現する会」の主張を簡単に説明すると、
- 抗認知症薬を添付文書に示された規定量で使っていると、具合が悪くなる人がかなりいる。
- 規定量より少ない量で十分な人が、かなりいる。
- 規定量より敢えて少ない量で使用していると、保険請求が通らず医師(病院)が損害を被ることがある。最初から増量ありきの規定は、いかがなものか。
というものである。
これらについては、当ブログで以前から取り上げてきた。
www.ninchi-shou.com
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重要なのは、「少量投与が正しい」という前提を先に設けて少量投与してきた訳ではなく、「適量を意識していると、大体が少量投与に落ち着く」という経験を踏まえて言っている、という点である。
「目の前の現実に薬を合わせていくと、薬の量が少なくなっていくことのほうが多い」と言い換えてもいいだろう。
一方、日本老年期精神医学会の新井平伊理事長は、こう述べる。
少量投与による治療はサイエンス(科学)ではない。有効性が認められた適用量が定められているのに、医師の裁量で減らして認知症が進行したら責任をどう取るのか
特に断りがない以上、理事長の見解が「サイエンス>>>医師の裁量」であれば、それは学会の公式見解と考えてよいだろう。
「サイエンス>>>医師の裁量」の世界。
それはさながら、カトリック全盛の中世ヨーロッパを彷彿とさせる。聖書に書かれていることが全てであり、信者が個々で神と結びつくことを許さない世界。
認知症関連学会理事長である新井医師の「私は自分で考えて処方していません。サイエンスの示すとおりに処方しています。」という大胆な告白は、瞠目に値する。
研究医としては「模範的サイエンスの徒(≒統計学の徒)」となるのかもしれないが、残念ながら臨床医としては致命的である。
臨床試験で有効性が認められた適用量が、目の前の患者さんにそのまま当てはめられるかどうかを慎重に吟味することこそ、多種多様な患者を診る臨床医の最も重要な仕事だからである。
逆に新井医師に尋ねたいのだが、適用量を処方して認知症が進行したら、どう責任をとるつもりなのだろうか?そもそも、認知症とは進行性の疾患なのでは?
「私はちゃんとサイエンスに則って適用量を処方しました。よって、進行しても私には責任はありません」とでも言うのだろうか?
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そして、それを新井医師は誰に言うのだろうか。
患者さんやご家族に?それとも、患者さんを良くしてあげられなかった自分に?
「認知症が進行したら責任をどう取るのか」と新井医師は言うが、それが「訴えられたらどうするのか!?」ということだとすれば*1、我々医師の責任の取り方が「責任≒訴訟」という形而下的なレベルで語られているように思えて辟易する。
100歩譲ってもし仮に「責任≒訴訟」だとしても、患者さんやご家族が訴えたくなるのはどのような医師だろうか。
個々の条件で裁量して、敢えて抗認知症薬を少量に抑えた医師だろうか?
それとも、個々の条件で裁量せずに”サイエンス(エビデンス)”どおりに抗認知症薬を処方した医師だろうか?
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そもそもの目的が違う人々とは、永遠にかみ合わない
引き続き、新井医師の発言を引用する。
新井理事長は、「少量投与で済む患者はごく少数いるが、エビデンス(医療上の根拠)がない。増量規定に関しては、10ミリグラムまで増やすのは認知症が進行したケースであり、私が診ている患者の多くは5ミリグラムで止めている。副作用がひどければ、エビデンスが認められている別の認知症薬に替えている」と語る。
ここで言われている5mgや10mgというのは、アリセプト(ドネペジル)のことである。
新井医師の患者の多くは、アリセプトを5mgで「止めている」とのこと。この「止めている」という表現から、以下の二つの可能性が考えられる。
- 自分が診ている患者の多くは10mgを使う必要がなく、5mgで「十分である」。
- 10mgに増量して副作用が出たら困るので、敢えて5mgで「止めている」。
1の場合、新井医師は進行した認知症患者を診ていないことになる。
何故なら、彼らの言うエビデンスに基づくのであれば、進行したら10mgに増やすべきだからである。エビデンスを遵守しているであろう医師がアリセプト10mgをほとんど処方していないということは、そういうことである。
しかし恐らく、実情は2であろう。
副作用を出したくないから、アリセプトを5mgで「止めている」のだと思う。
自分がそう思う根拠は、「副作用がひどければ、エビデンスが認められている別の認知症薬に替えている」という発言から、副作用を気にしていることが明らかだと思われるからである。
以下で、新井医師の心中を推察してみる。
(心の声を代弁)
通常用量で使っていたら、副作用が出る人は実際いるよね。そういう時には出来れば少量投与したいのだけれど、少量で十分というエビデンスがないんだよ。困った困った。エビデンスの徒たる学会理事長の立場上、おおっぴらに少量投与は出来ないんだよね・・・。
そうだ、『個人的裁量の入る余地のない、エビデンスに基づいた医療を行うのが医師の仕事だ』とすればいいんだ。
そうすれば、何かマズイことが起きたとしても、それはエビデンスに従ったまでであって、医師個人の責任は問われないだろう。
いいこと思いついた!!
(代弁終了)
もしこの推測が当たっているならば(これまでの文脈から類推する限り、その可能性は高いと思うが)、新井医師は「認知的不協和」を起こしていると考えられる。
認知的不協和とは、矛盾する認知を同時に抱えた状態のことである。
認知的不協和を持ち続けることは通常精神的負担となるので、人は自分を守るために、矛盾する認知の中で自分に有利な認知を採用して利用する。
患者さんを良くするために行うはずの治療で患者さんの具合が悪くなることを認めたくなければ、「エビデンスがあるからそうしている(そうせざるを得ない)」とすればよい。そうすれば、自分を守ることができる。
有り体に言えば、保身である。
別に保身を悪いとは言わないが、曲がりなりにもサイエンスの徒を自称するのであれば、保身をするにしてもサイエンスをexcuseにするのはいかがなものかとは思う。
ところで。
薬の副作用を出したくないのは我々も同じである。しかし、我々(適量意識派)と彼ら(一律同用量派)はかみ合わない。何故か?
東洋経済の記者は、最後にこうまとめている。
現行の医療技術では、進行してしまった認知症を治すことは困難だ。患者家族には長期戦が求められる。薬で認知症の進行を遅らせたところで、生活の質を損なってしまっては元も子もない。何のために薬を使用し続けるのか、あらためて考える必要がある。(赤文字強調は筆者による)
個々の患者に即した適量を模索する我々の念頭にあるのは、
「長期戦を、いかに安全に戦うか」
ということであり、それが認知症治療の重要な目的となっている。少なくとも、自分の場合はそうである。
様々な工夫の末に認知症の進行を遅らせることが"結果的に"出来たら良いと願うが、それを生活の質を損なってまで追い求めるつもりはない。*2
つまり、認知症の進行を遅らせることは二の次なのである。
ここが、彼ら(一律同用量派)との決定的な違いなのかもしれない。
サイエンスの徒たる彼らは、エビデンスに則った処方で認知症の進行を遅らせることこそが、最大の目標になっているのではないだろうか。例えそれが、「一年間」だけだったとしても。*3
サイエンスに基づいて抗認知症薬は作られ、デザインされた臨床試験で統計学的処理を施された結果、「一年間、対照群とは有意差を持って、内服群は認知症の症状進行が抑制された」というエビデンス(≒お墨付)を貰い、抗認知症薬は世に放たれた。
サイエンスの徒としては、この一連の「流れ」そのものを守らなければ*4自分達の存在が根底から揺らいでしまう、そのような恐怖感があるのかもしれない。
しかし、ここで疑問に思うのは、「一年間進行を遅らせるというお墨付がある抗認知症薬を、全員に忠実に一律同量で一年間処方し続けたその後は、彼らはどうしているのだろうか?」ということ。
恐らく同じ量で二年、三年と続けていると思われるのだが、それは果たして何らかの"エビデンス"に基づいているのだろうか?まさかとは思うが、惰性で処方し続けてはいまいか。
この問いに対して、エビデンスに基づいた明確な答えを準備しているサイエンスの徒を、自分はまだ知らない。
彼らの「自分の診療はエビデンスに基づいている」という態度からは、ある種の"見栄"が見え隠れする。「オレはこのようなエビデンスを知っている!」、「あの有名雑誌に掲載されたあの論文、知らないの?」といったような。
衒学的とすら言えるそのような態度は、果たして科学的と言えるのだろうか。
真に科学的な態度とは、既存のエビデンスが現実を説明しきれない時にエビデンスの不備を疑う態度ではないだろうか。
認知的不協和を抱きながら、不備のあるエビデンスを「これしかない」と押しつける態度は、科学的な態度とは到底呼べないと思う。
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