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鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

エビデンスの向こう側

 

自分がどのような診療をしたいのかということを掘り下げるために、いつもの如くアリセプトを題材にして考えてみる。

 

アルツハイマー型認知症と診断した患者さんに、アリセプトを3mg処方する。

 

次回診察時に確認すると、活気や自発性の向上が得られたとのこと。よかった、よかった。

さてここで選択肢。

 

  1. 3mgで効果があったので、しばらくこのまま経過をみよう。
  2. 添付文書では5mgに増やすように、と書いてあるので5mgを処方しよう。

 

自分は①を選択する。

エビデンスに基づいた処方とは?

 

アリセプトの添付文書には、こうある。

 

  最終全般臨床症状評価において5mg群はプラセボ群と比較して有意に優れていた。「改善」以上の割合は5mg群17%、プラセボ群13%、「軽度悪化」以下の割合は5mg群17%、プラセボ群43%であった。

 

アリセプト5mg群とプラセボ群を24週間観察した結果、5mg群が有意に優れていたとのこと。(n=268)

 

3mg群とプラセボ群を比較したデータは、残念ながらない(自分は知らない)。よってこの場合、エビデンスに基づいた処方とはデータのある5mgを処方することになる。

 

既に効果が見えているケースで増量する理由は?

 

アリセプトとは、3mgで開始して5mgに増量することを義務づけられた薬*1である。

 

3mgで効果が感じられず、かつ副作用も出ていないのであれば、5mgに増量する意義は確かにある。しかし、3mgで改善があるのに更に増量するのであれば、それは何のためであろうか?可能性として、以下の3つを考えてみた。

 

  1. 添付文書にそう書いてあるから。エビデンスを大事にするのであれば、有意差の出た用量に従うべき。
  2. 3mgで改善しているのであれば、5mgに増やしたら更に改善するのでは?と期待するから。
  3. 患者さんやご家族から「もっと良くしてくれ!!」という猛プッシュを受けてやむなく増やす。

 

認知症診療に取り組み始めて間もない医師であれば、①であろう。そしてそのうちに、副作用という名の痛い目に遭うことで色々と学んでいく。

 

しかし、それなりに診療経験を積み、副作用も目の当たりにしてきたであろう*2医師が、頑なに添付文書を守って5mgに増量し続けるとしたら、それは「思考放棄」の誹りを免れられまい。

 

参考までに、添付文書を守った結果で起きうる事例を挙げておく。

 

 

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では、②の場合はどうだろうか?

 

臨床をしている医師であれば、患者さんに対して

 

「今より少しでも良くなって欲しい」

 

と願うものである。その願いから、少し欲を出して5mgに増量するというケースはかなりありそうだ。

 

この場合、事前に増量に伴う副作用発現の可能性をちゃんと説明していれば、増量はありだと思う。

 

では、最後の③はどうだろうか?

 

これも実際にはありそうだ。というか、自分は経験している。そして痛い目をみた。③の場合の医者の心境は2つに分かれるだろう。

 

  1. ここまで熱意のあるご家族の想いには何とか応えてあげたい。
  2. ここで薬を増やさなかったら、愛想を尽かされるかもしれない。

 

患者さんやご家族から無言のプレッシャーを感じることは、多々ある。

 

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更なる改善を期待して抗認知症薬を増量したとしよう。では、その「改善」とはどのようなものなのか?

 

再びアリセプトの添付文書に戻る。

 

  認知機能を評価するADAS–Jcog得点の経時変化を表に示す(最終解析対象:205例)。投与開始時との得点差の平均では、投与12週後より5mg群がプラセボ群と比較して有意な改善が認められた。最終時の5mg群とプラセボ群の投与前後の変化量の差は2.44点であった。

 

このようにあったので、「エビデンス」的にはADAS-Jcogによる改善が、認知症の改善ということなのであろう。

 

このADAS-Jcogだが、単語再生や物品呼称、構成行為、観念運動、見当識など、所謂「中核能力(症状)」を評価するもので、習熟したスタッフが行っても優に1時間はかかる検査である。人的余裕のある大病院ならいざ知らず、一般の無床クリニックでおいそれと行える検査ではない。

 

外来を回すことに大忙しの一般臨床医が、ADAS-JcogやMMSE、長谷川式テストなどで、より高得点(ADASであれば低得点)をとれるようになることを期待して、抗認知症薬を増量しているだろうか?

 

実際はカジュアルに処方されているのが現実だと思う。ただし、「エビデンスに基づいて」と言っておけば、それなりに体裁は保てる。

 

話が逸れた。

 

抗認知症薬とは基本的に、中核症状を改善させる薬である。添付文書ではざっくりと「認知症の症状進行の抑制」と記載されているが、エビデンスとしてADAS-Jcogの改善を謳っている以上*3、それは中核症状の改善が主目的だと思われる。

 

では、認知症の治療とは中核症状を改善させることなのだろうか?

 

生活を揺るがすほど困るのは、中核症状よりも周辺症状である。

 

認知症の中核症状と周辺症状

 

認知症とは中核症状から始まり、そのうち周辺症状が出てくると説明されることが多い。ここで考えて欲しいのだが、上記の図を見て「どちらの症状が大変そうだな」と感じるだろうか?

 

自分が認知症になったとしたら、周辺症状は出来るだけ勘弁願いたいと思う。中核症状だけ進行するのであれば、何とか周囲が支えてくれそうな気がする。*4

 

新しいことが覚えられなくなったり、服の着替えに手間取ったりするようになれば、それは確かに不便である。しかし、そのことによって焦ってしまう本人の気持ちを、周囲の人達が上手く察してサポート出来れば、日常生活を大きな不便なく過ごせるケースは多い。

 

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アルツハイマーの要素を多く持ちつつも、家族に支えられながらニコニコと楽しそうに暮らす方達がいる。このような方達は、自分の経験では抗認知症薬の量が少ないか、もしくは飲んでいないことが多い。飲まずに済めばそれに越したことはないのが薬というものだが、厄介なことに

 

  認知症になったら、早めに薬を飲まなくてはならない

 

というある種の社会的コンセンサスが既に形成されてしまっており、そのコンセンサスに患者と医師の双方が縛られているように思える。

 

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また、更に厄介なことに抗認知症薬の増量により、これまでなかった周辺症状が出現したり、悪化したりすることがある。そして、それが薬の副作用と気づかれないこともある。

 

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意識すべきは周辺症状の制御だと思う。これは、自分が本格的に認知症に取り組み始めてから一貫して変わらない考えである。

 

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医療に機会損失の考え方を用いるべきかどうか

 

ところで、抗認知症薬の効果が確認出来た時点で用量を据え置いた場合、得られるメリットには以下のようなものが挙げられる。

 

  1. 患者さんのお財布に優しい
  2. 国のお財布にも優しい
  3. 症状が進行した際に、増量を試みる余地を持てる
  4. 副作用を出す確率を減らせる

 

一旦薬が始まれば、大抵は年単位で処方が続く。それを支えるのは患者さんと国のお財布であり、医者や製薬会社のお財布ではない。

 

患者さんの懐事情に無配慮な治療は長続きしないし、社会保障の最前線にいる我々としては、国のお財布事情にも無関心ではいられない。

 

経済面への配慮で思い出したが、とある勉強会に参加した時のこと。

 

  エビデンスがあるのは、標準量まで抗認知症薬を増やした場合だけ。少量投与のエビデンスはない。従って、臨床医としてはエビデンスのある投与方法を用いるべきである。もしアリセプト3mgのままでいたら、5mgで得られたであろう利益(改善効果)を、患者さんが失ってしまう。それでいいのか? 

 

という内容の話をした演者がいた。当人が意識的だったのかは分からないが、これは、「機会損失」の話だと思った。

 

  機会損失は、簡単に言えば、「稼ぎ損ない」や「儲け損ない」のことをいいます。これは、実際の取引(売買)によって、発生した損失ではなく、最善の意思決定をしないことによって、より多くの利益を得る機会を逃すことで生じる損失のことを意味します。(i Financeより引用)

 

薬を増やすことによって得られるかもしれないメリットを見逃すのは、患者さんにとって不利益といえるのかどうか。言えるかもしれない。3mgで効果がなく、5mgで初めて改善が得られたら、その患者さんは機会損失を免れたと言えよう。

 

ではこの機会損失の考え方は、3mgで既に効果があるにも関わらず5mgに増やす理由になるだろうか?

 

これは微妙なところだろう。何故なら、既に3mgで得られた改善効果を、5mgへの増量によって起きるかもしれない副作用の為に失ってしまう可能性があるから。

 

患者のための治療なのか、エビデンスのための治療なのか

 

  1. 医療費高騰に悩む国の立場からすると、「少ない量で効くのなら、そうしてくれよ」と考える。
  2. 患者さんや家族は、「今より少しでも良くなって欲しい。ただ、お財布に優しければ尚うれしい」と考える。
  3. 医師は「少しでも患者さんを良くしてあげたいが、副作用も極力出したくない」と考える。
  4. 製薬会社は、処方量が多いほど売り上げが上がる。

 

4者の立場を自分なりに想像してみたが、機会損失の考え方で増量を行った場合、最も得をするのは製薬会社だということが分かる。そして、機会損失の考え方を元に増量の必要性を訴えた医師がどういう立場に在るのかも、ほのかに見える気がする。

  

ところで、当該医師のプレゼンには様々なデータが使われていたのだが、その数字の向こう側の景色は全く伝わってこなかったのは印象的であった。

 

メタ解析の意義や重要性を否定する気は更々無い。ただ、診療で苦慮したことや改善した時に得られる喜びが手触りとして伝わってこない報告を盾に、

 

「コレがエビデンスだ!!」

 

とドヤ顔されてもなぁ・・・というのが正直な感想である。

 

エビデンス至上主義

 

Donepezil and Memantine for Moderate-to-Severe Alzheimer's Disease

 

これは2012年のNEJMに掲載された論文だが、

 

  In patients with moderate or severe Alzheimer's disease, continued treatment with donepezil was associated with cognitive benefits that exceeded the minimum clinically important difference and with significant functional benefits over the course of 12 months.

 

という結論である。

 

つまり、現在の標準治療(アリセプト+メマリー)を行っても、未治療群と比較してメリットが得られるのはせいぜい一年が限界、ということ。

 

患者さんの治療が一年限定であれば、標準治療で頑張るのもいいだろう。しかし、最低でも数年、場合によっては十年以上お付き合いしていくことを考えると、初期段階で「5mg群の方が有意に~」というエビデンスを遵守することに、どれほどの意義があるのか考えざるを得ない。

 

それよりは、初期段階では副作用を極力出さないように細心の注意を払いつつ、その後長期的に良い関係を維持していくための配慮に重きを置く方が、よほど有意義ではないだろうか。そして、そのような配慮はエビデンスとして発表できる類いのものではない。

 

医療介護現場の仕事とは、患者さんや家族との関係性(物語)の中にこそ存在する。良い物語にするために使えるエビデンスは採用するし、使えないエビデンスにはそっと退場願う。

 

エビデンスのみが屹立すると、現場は殺伐としたものになる。

 

○それは、エビデンスあるの?

○エビデンスのないことをしてはいけないでしょ?

 

有用なエビデンスを押さえておくことは重要だが、エビデンスからこぼれ落ちる人がいることや、未だエビデンスが存在しない領域があることを忘れてはならないだろう。

 

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そして、エビデンスの存在しない領域は皆が知恵を絞って開拓する必要があるのであり、その為に必要なのはNarrativeな視点*5である。

 

Narrativeな視点のないエビデンス至上主義ほど、始末に終えぬものはないと思う。

 

 

*1:これはアリセプトに限らず、全ての抗認知症薬に設けられた増量規定である。先日、抗認知症薬少量投与を事実上可能とする厚労省発表があったことは記憶に新しい。

*2:「副作用を経験していない」という医師がいたら、その僥倖におめでとうと言いたい。そして、副作用に気づいていない可能性を考えないおめでたさにも、おめでとうと言いたい。

*3:リバスチグミンでは、家族負担尺度である改訂クリクトン尺度の改善が謳われており、個人的には好ましく思っている。

*4:というか、支えて下さい<(_ _)>

*5:物語りと対話に重きを置いた視点のこと。