人が変わったように不穏になるのを何とかして欲しいと、施設入所中の超高齢女性(以下、Aさん)がスタッフに付き添われて来院した。
紹介状には、「精神科への入院を強く勧めましたが、家族がどうしてもそちらを希望したので紹介します」と書かれていた。
ちなみに、施設からの情報提供書を読む限りは、Aさんの不穏症状に対してこれまで薬は使われていなかった。
診察当日、家族の同伴はなかった。
施設スタッフ曰く、「ご家族が本人と会ってしまったら、里心で帰宅願望が強まってしまうので・・・」とのことだった。これはよくある話で、仕方の無いことである。
同伴したスタッフのAさんへの接し方から、普段から細やかなケアが提供されているであろうことは見て取れた。
診察中、Aさんの態度は一貫して穏やかだったが、抑揚のない一定のトーンで甲高い声から、ある種のパーソナリティを持つことは容易に想像できた。念のためスタッフに入所前のエピソードを聞いたところ、
- 夫をアゴでこき使っていた
- スイッチが入ると、家族でも他人でも容赦なく罵倒していた
とのことだった。
パーソナリティが強く偏った人が認知機能低下をきたした場合、その対応は相当難しく、勝ち戦に持ち込めた記憶があまりない。家族が疲弊し、見放すことはザラにある。
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今回の受診は家族希望という体を取ってはいるものの、恐らくは施設スタッフの希望で、そういう形を取らざるを得ない事情(緊張関係)が、主治医である訪問診療医と施設スタッフの間に普段からあるように感じられた。
「何とか落ちつかせて欲しい。このままだと、施設で看れなくなる」というスタッフの要望は切実で、Aさんが入院になれば仕事的には楽になるだろうに、そうはしたくない、自分たちが看るんだ、という強い覚悟を感じた。
直近の採血結果を確認したところ、カリウムが2.8と低かった。これは、甘草入りの漢方を使うかどうかを躊躇させる数字である。
しばし、考えを巡らした。
糖尿病があるためクエチアピンは使えない、いきなりリスペリドンはちょっと怖い、チアプリドは悪くはないかな、バルプロ酸は何となく良さそう・・・etc
抗精神病薬に躊躇するスタッフに配慮し、低カリウム悪化に注意してまずは抑肝散加陳皮半夏を使うこととして、ダメなら次はチアプリドと決めて2週間後に再診とした。
その直後、主治医から電話がかかってきた。その第一声は、
「低カリウムの患者に甘草入りの漢方を飲ませて、何かあったらどう責任を取るのか?」
であった。「漢方ではなく、他に方法はありませんかね?」ではなく。
施設や家族の期待に応えられなくなることを多少残念に想ったが、是非もない。
考え方の次元が異なる相手の説得に費やす時間はないので、
「いやぁ、先生のご心配はご尤もだと思いますよ。この年齢ですから、いつ何があってもおかしくないですものね。精神科への入院を、改めて先生の方からご家族に勧めて下さい」
と返したところ、相手は一寸鼻白んだようだったが、「では・・まあ、そのようにします」と言って電話を切った。
低カリウムで不整脈が出たら責任が取れない。下肢筋力低下が生じて転倒したら責任が取れない。
「責めを負う」という意味でしか責任を理解できなければ、自然と「責めを負いたくないので何もしない」という考えになる。
責任には「義務・任務」の意味もあるわけだが、医者の応召義務*1がコロナ渦であれだけ放棄された現実を見る限り、もうだいぶ前から我々の業界では責任を「責め>>>>義務」と考える人間が大勢を占めるようになっていたのだろう。
防衛医療のなれの果て、とも言えようか。
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この年で精神科に入院したら、Aさんはもう元気に帰ってこれないかもしれない。
そう考えて、施設スタッフや家族は外来治療を希望したに違いない。
転倒して怪我をしないか。食事の際に誤嚥しないか。自分が担当の時間帯に何か起きたら、施設管理者や家族、医者は何と言うだろうか?自分たちが責任(責め)を問われるのだろうか?この苦しい状況は、いつまで続くのだろうか?
判断力を喪失した人をケアする責任(義務・任務)は、ただひたすら重い。
介護者の付託に応えると決めたとき、自分は以下のようにシンプルに話す。
「慎重にやってみましょう。薬はまずは少量から。その後どのように変化したか、次回詳しく教えて下さいね」
と。
この時の心情をもうすこし詳しく言語化すると、以下のようになる。
このままだと大変ですよね。あなたたちの大変さを、部分僕も引き受けますよ。薬の副作用に注意しながら、やるだけやってみましょうよ。副作用で何か起きたとしても、そこには医者の自分も関わっているわけだから、あなた達だけの責任ではないですよ。ただし、薬の効果や副作用については、生活を看ているあなた達にしか分からないから、薬が開始になった後の様子については詳しく教えて下さいね。
介護者は通常、介護の責任を否応なく背負っているのであって、好き好んで引き受けているわけではない。*2
介護者の持つ重い責任の一部を引き受けることこそ、認知症を診ている医者の責任だと考える。
自分は、自己決定が出来ない人に薬物を、特に抗精神病薬を投与することに、常に後ろめたさを感じている。
薬で副作用が生じると普通は申し訳なく思うものだが、それが後ろめたい気持ちで処方した抗精神病薬であれば尚更で、その副作用が酷ければ酷いほど犯罪を犯したような気分になり、時に懊悩することすらある。
重大な副作用を目撃した介護者も、「自分が薬の相談をしなければ、こんなことには・・・」と、後ろめたさを感じるだろう。
副作用で辛い目に遭わせてしまうかもしれないが、生活を守るためには後ろめたくてもやるしかない。
この覚悟を介護者と医者が共有出来るかどうかが、陽性症状の改善率を大きく左右する。
もう長いこと重大な副作用は経験していないが、それは、後ろめたさを共有してくれる介護者の子細な情報提供があるからこそである。
それでも、物事に絶対はない。
絶対に副作用を起こさない唯一の方法は「何もしない」ことだけだが、事態の悪化が予見出来たにもかかわらず何もしないのであれば、それは「未必の故意」である。*3
未必の故意よりは、まだ改善の可能性がある投薬を自分は選ぶ。
こういった心情は、リスクを承知で踏み込まざるを得ない局面を経験したことのない、もしくは、そのような局面を回避してきた医者には理解しがたいと思う。勿論、電話で一々説明するようなことでもないし、分かってほしいとも思っていない。*4
自分の言う「考え方の次元が異なる」とは、そういう意味である。