鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

減薬医としての矜持。

Aさんは施設入所中の方だ。

 

かかりつけの病院で何かを相談するたびに薬が増え、その都度具合が悪くなっていくという状況に業を煮やした家族が、「ちゃんと診断して、出来れば薬を減らして欲しい」と希望してAさんを僕の所に連れてきた。

 

前医の診断はパーキンソン病だったが、僕がみる限りAさんは典型的なレビー小体型認知症だった。

 

大量の抗パーキンソン病薬を含め16種類の薬を減量・中止していくと、傾眠がなくなり表情が柔らかくなり、睡眠の質も良くなるなどの改善が得られAさんも家族も喜んでくれた。

 

減薬は順調に進み、16種類の薬は8種類まで減った。

 

あるとき、Aさんの家族にこう言われた。

 

「施設の方から、『内科系の薬は訪問に来てくれる先生にお願いしませんか?何かあった時に頼りになりますから』と言われたので、今の薬の中から内科系の薬を外して欲しいんですけど」

 

埋め込まれた分業主義

 

皮膚科系の薬が軟膏で、眼科系の薬が点眼薬というのは分かる。では内科系の薬とは一体、どのような薬のことを指すのだろうか。

 

「内科医が処方する薬は内科系」ということなのか。

 

内科医が処方することが多い血圧やコレステロール、糖尿病の薬のことだろうか。

 

では、脳外科医の僕が出す血圧の薬は何系の薬になるのだろうか。

 

内科医の処方する便秘薬は内科系の薬で、脳外科医の僕が処方する便秘薬は外科系の薬?

 

ちなみに、「内科系の薬」はしばしば耳にするが、「外科系の薬」という言い方は聞いたためしがない。

 

僕にとっては奇妙でしかないが、この分類が「専門は専門で」という分業主義に根ざしたものだということは想像に難くない。

 

「内科系の薬と分けて下さい」

 

と頼まれた時に返すよう決めている言葉を、今回も僕は繰り返した。

 

「それだったらいっそ、内科系の薬だけじゃなく全部の薬をお願いしましょうよ。」

 

返答は、常に2通りだ。

 

一つは、

 

「それは助かります。複数の病院に通うのは大変ですから・・・」

 

この返答を聞いた時点で、僕は「自分の仕事は終わった」と安堵する。それがたとえ減薬の道半ばであったとしても、僕が関わったことで不要な薬が一つでも二つでも減ったら、それで満足だ。

 

しかし、Aさんの家族の返答はもう一つのパターンの方だった。

 

「・・・!それは困ります。頭はちゃんと、先生に見てもらわなければ。」

 

ポリファーマシーの原因が医者だけとは限らない

 

ポリファーマシーの原因の多くは医者、そして医療の構造にあると考える僕だが、

 

「脳外科医の専門分野は頭。その他の分野は専門外。内科系の薬は内科の医者が扱うべき」

 

といった家族や介護関係者の先入観・思い込みがポリファーマシーの一端を担っている現実も、沢山見てきた。

 

以前は処方を一元化するメリットを熱心に説明していたが、今は「分からない人には永遠に分からない」と諦観している。

 

16種類の薬を、「専門外*1」の僕が吟味して減らしていった結果、Aさんが元気になっていった現実を目の当たりにしても分からない人たちには、処方一元化のメリットは永遠に分からないだろう。

 

多剤併用でAさんが具合が悪くなっていった理由は、端的に言うと前医に「センス」がなかったからだ。

 

薬を増やしてもなお状態が悪化していく時に、「これは何かマズい」と感じて一旦立ち止まり退くことが出来るかどうか。

 

これは経験よりもセンスが物を言う世界だと、僕は確信している。

 

医者稼業の基本である「do no harm」という原則を実践できるかどうかは、病気の進行を宿命づけられた難病に相対する場合に、特に強く求められる。敢えて余計なことをしない勇気と言い換えてもよい。

 

患者・家族や介護関係者もまた、たまたま出会った目の前の医者にセンスがあるのかどうかを、自分自身のセンスで判断しているに違いない。

 

結婚相手を選ぶにしろ、今日の昼飯のことにしろ、何かを選び判断するとき、みな自分のセンスに依拠している。

 

出会いは常に偶然だけれども、偶然が必然と思える瞬間は確かにあって、それは恐らく両者のセンスが一致した時なのだろう。

 

Aさんの薬を分けるという画を描いたのは家族ではなく施設のスタッフだろうが、恐らく彼らの意図はこうだ。

 

そのうち、いつもまとめてウチの入居者を診てくれる訪問の先生にバトンタッチさせたいな。コロナ渦の今、通院させてコロナを持ち込まれたくもないし。ただ、一足飛びに訪問医にバトンタッチさせるのは今の担当医に失礼かもしれないから、ひとまず「内科系の薬」と分けて貰うことにすれば、角が立たないかな。訪問の先生にも、何か薬一種類だけでも手土産があった方が、こちらも色々と頼みやすいし。

 

彼らに悪意があるとは思わない。

 

それが本当にトータルで患者さんのためになるのであれば、連携をとりつつ分業すること自体は僕もやぶさかではない。

 

ただ、「主義」として分業を当然とはしないだけだ。

 

処方箋を分けたら費用負担は増えるし、通院先にそのまま通い続けるなら、通院支援のための人的負担もそのままだ。これらの負担よりも分業の方を優先するというセンスは、僕の持つセンスとは明確に異なる。*2

 

ところで、内科系の薬1つを手土産に貰った訪問診療医は、その一つの薬だけを律儀に出し続けるのだろうか?

 

経験上、それはない。

 

Aさんを診察して必要と感じたら。
Aさんが何かを訴えたら。
施設のスタッフが何かを訴えたら。

 

その都度、訪問診療医は何らかの薬を出すかもしれない。そのことに対して、僕はとやかく言えない。

 

理由があって僕が見逃しているLDLコレステロール180を。


自律神経不全により血圧変動を頻繁にきたすため、敢えて見逃している時折の収縮期血圧160を。

訪問診療医は見逃さずに薬を出すかもしれない。そのことに対して、僕はとやかく言えない。

 

処方医が増えると責任の所在は曖昧になり、そのうちに薬は増えていく。

 

こういうことは、既視感という言葉では足りないほど経験してきた。

 

苦労して減らした薬が、それが別の種類であったにしても、自分の目の前でまた増えていくような事態を僕は見たくない。

 

見たくないので、「内科系の薬を・・・」と言われた時点で僕は撤退を意識する。特に、「処方の一元化と減薬希望」で始まったお付き合いの場合には、強く意識する。

 

家族が通院継続を希望したとしても、僕から見て状態が落ちつき処方の微調整が当面は不要になったと判断したら、一元化を優先して撤退する。

 

これは僕の我が儘なのだろうか?

 

こういう時に僕の頭に浮かぶ画は、切り分けられたパイだ。

 

高齢者というパイに医療介護関係者が群がり、寄ってたかって切り分けようとする画だ。

 

切り分けられることを喜んでいるかどうかも分からない高齢者に寄ってたかる一人にはなりたくないという想いは、「患者や家族に寄り添う」という自ら掲げた理念を時に凌駕するほど強い。

 

これは我が儘ではなく、ポリファーマシーに関わってきた僕なりの矜持なのだと思う。

 

高齢者に群がる人びと
Spiral of Hands flickr photo by lostintheredwoods shared under a Creative Commons (BY-ND) license

*1:僕はパーキンソン病や認知症の専門医ではない。それをホームページや看板で謳ったこともない。

*2:利用者の多くに訪問看護や訪問薬剤管理、訪問診療を受けさせる施設があるが、仕事を外注することで自分たちの仕事は最小化できるだろう。人手不足の昨今仕方なしの事情はあるにしても、仕事の最小化は自分たちの成長の機会損失に繋がることを自覚しているのだろうか。