鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

脳神経外科手術と認知症診療、自分の中での共通点。

 脳神経外科手術では、脳を愛護的に扱うことが前提となる。

 

「正常脳を大きく傷つけたけれども、脳腫瘍は全て摘出できました。手足には強い麻痺が遺るでしょう。」では、ダメなのである。

 

また、動脈瘤の手術であれば「いかに術中に動脈瘤を破裂させず、なおかつ正常脳を傷つけずに手術を完遂するか」が求められる。

 

その為には、

 

  • 道具の使い方を工夫(達人は自分で道具を開発する)
  • 顕微鏡の扱い方を工夫
  • 自分の立ち位置や術野を浅くする(手前に持ってくる。奥の操作ほど難しい。)工夫
  • 両手の使い方や手を置くポジションの工夫

 

などなど、脳神経外科医は実戦で練度を高めつつ、手術成績向上のためにoff the jobでも様々な工夫を積み重ねていく。

上山式マイクロ剪刀との出会い

 

思い出話になるが、上山式のマイクロ剪刀(顕微鏡手術の際に用いるハサミのこと)を初めて使った時の感動は大きかった。「これはいい武器を手にした」と感じ、早速自分用に購入したことを覚えている。

 

上山式マイクロ剪刀

 

良い手術とは、途中の試行錯誤を含めて複雑なプロセスを経ていても、終わってみるとシンプルなことを徹底してやりきれていたどうかで決まっていたように思う。無駄なことをせずに済めば、それだけ手術は早く終わるし患者さんの予後も良い。

 

anterior temporal approachという手術方法に則って、上山式のハサミを用いながら脳底動脈-上小脳動脈瘤の手術をやり遂げた時には、得も言われぬ達成感があった。

 

コウノメソッドとの出会い

 

週に1回、午前中しか外来をしていなかった頃には分からなかったのだが、連日外来に出るようになって初めて、脳神経外科外来を訪れる認知症患者さんの多さに気づいた。

 

その頃の自分(2011年頃)は、認知症の病型診断もろくにつけられなかった。そもそも、認知症診療にさほどの情熱を持っていたわけでもなかった。

 

正常圧水頭症とアルツハイマー型認知症に関する乏しい知識しか持ち合わせておらず、アリセプト5mgで元気になる人がいたら「よかった・・・」と喜び、アリセプト5mgで具合が悪くなる人がいたら「しょうがないよね・・・」で3mgに減量して、たまにグラマリールや抑肝散を出してお茶を濁していた。

 

しかし、お茶を濁している間にもどんどん患者さんはやってくる。アリセプト3~5mgとグラマリールと抑肝散だけでは、圧倒的に戦力不足であった。

 

そして、「何か、武器になるものはないかな・・」と捜して見つけたのがコウノメソッドである。

 

河野先生のブログの過去ログを全て読み、書籍を数冊買って読み、恐る恐る始めた認知症外来最初の患者さんが幸運にも著明に改善してくれた。

 

www.ninchi-shou.com

 

その時の感覚は、上山式マイクロ剪刀を手にした時と同じく「これはいい武器を手にした」であった。

 

練度を高めていく終わりのない仕事であるが故に、工夫し続けなければ途中で飽きる

 

手術をしていた頃と今を比べてみると、やっていることはさほど違わないように思う。

 

脳を傷つけないように気をつけることは、薬物療法で極力副作用を出さないように気をつけることと同じ感覚である。

 

そして、動脈瘤にクリップをかける隙間を作成するために動脈瘤周囲を剥離していく操作は大変な緊張感を伴うのだが*1、これもまた過鎮静にならない程度に穏やかにしたり、また易怒性亢進にならない程度に賦活したりする、いわゆる「攻めの処方」を行う時の感覚と、何となくだが似ている。

 

診断や治療の精度(練度)を高めるための工夫は、「もうこれでいいんだ」という終点のない仕事である。患者さんを診れば診るほど、自分の未熟な点が見えてくる。

 

性格上の問題かもしれないが、自分の場合「これはルーチンワークだな」と感じた時点で飽きる傾向にある。そして、別のことがしたくなる。飽きを感じたまま仕事を続けるのは、自分にとって精神衛生上非常に問題がある。

 

ただ、仕事の一定部分はルーチンワークが占めているのは事実である。なので、質を一定以上に高めることが出来たと判断したルーチンワークは、それ以上追求せずに機械的にこなすか外注するかにしている。

 

高性能のルーチンワークを複数持つことは、自身の仕事の生産性を高めるために必要なことだとは思っている。それと同時に、新たな高性能ルーチンワークを生み出すべく、色々なジャンルに踏み込んでいく積極性も大切にしたいと思っている。

 

質の低いルーチンワークをそのままにして、工夫を加えずに後生大事に繰り返し続けていくことは、自分にとっては苦痛でしかない。

 

「患者さんやご家族のため」などと大上段に立ってモノを申すつもりは毛頭なく、単に自分は苦痛なことはしたくないので工夫し続けているだけなのかもしれない。

 

*1:大袈裟ではなく、胃に穴が空きそうな感覚である。