対人援助職が患者や家族に寄り添おうとした時に、必要となるのが共感的態度である。
同じ状況を自分が直接経験していなくても、辛い事態に打ちひしがれている患者や家族を前に自分も辛い気持ちを感じながら、
「大変ですよね、お察し申し上げます」
と寄り添うのが共感。
「私も経験しましたから、お気持ち分かります」は同情。
共感するにはそれなりの経験と技術が必要だが、同情に技術は必要ないため素人でも出来る。
共感的態度と同情的態度。プロの対人援助職に望まれるのは勿論、共感的態度である。
常に共感的態度で患者や家族に寄り添いたいと考えてはいるが、そうはいっても我も人の子。
認知症の親の拙い行動を本人の前であけすけに非難しながら、自分の置かれた状況の辛さのみを声高に主張する娘や息子に共感することは苦行に感じる。
苦行に感じるということはつまり、共感できていないということのだろう。
「この苦行を続けることで、自分はいつか聖(ひじり )になれるのだろうか?」
そのようなことをぼんやり考えながら、功徳を積もうともがく日々。
ところで、患者や家族の立場であれば、医療者が共感的態度で接してくれることは嬉しいに違いない。
医療者の立場で言うと、共感的態度で接することは、患者の癒やしを促し、治療上有用な情報を得ることの出来る有用な手段である。
ただ、共感し続けると必ず精神的に疲労する。
- なんで私がこんな目に・・・
- これからどうなっていくのだろう・・・
自分の経験したことのない状況に打ちひしがれている患者や家族を目の前に、自分の感情をそこに寄せていくということは、いうなれば感情の「持ち出し」である。
自分がもし同じような状況を経験したことがあれば、同情は出来る。共感に同情少し混ぜると、感情の持ち出し分は減って、その分自分自身は少しだけ楽になる。
自分は認知症の祖母の主治医をし、看取った経験があるため、認知症領域のことであれば同情も含めて寄り添うことは少なからず可能だと思っている。
ただし、患者や家族が望むのはあくまでも共感的態度であろうから、「同情>共感」にならないように気をつけている。
患者や家族からこのような言葉を聞いたとき、持ち出した感情が満たされていく。
患者や家族の素直な喜びは、「共感疲れ」に陥った医療者を癒してくれる。
今のところは、共感できる患者や家族が圧倒的に多い。そして、そこで経験する自分の共感疲れを癒してくれる患者や家族が少なからずいるので助かっている。
ただ、「共感できない疲れ」は手強い。プロとしての自分の未熟さを突きつけられた想いになる。
自己肯定感が揺らぎそうになるたびに、解を求めて古典を手にとる。何度も、何度も。
セネカ
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共感できない疲れを克服できずにいると恐らく、do no harmを忘れニヒリズムに堕し、患者に危害を加えるようになっていくのだろうと考えると、共感できない疲れの克服は医者を続ける限り生涯の課題となる。
毎月クリニックに訪れる、未だ共感も同情も困難な人たちを、自分はどのような顔で迎えているのだろう。
作り笑いだろうか。それとも、ただただ疲れた表情なのだろうか。*1