「私は悪くない。悪いのは〇〇だ。」
年を重ねるか認知症になるかして抑制機能(≒前頭葉機能)が失われたとき、これまでの被害的な思考の癖が形を変えて露わになることがある。例えば、「物盗られ妄想」のように。
おおっぴらには出来ない思考の癖を隠し続けることに疲れたとき、昔から人は便所に落書きすることで憂さを晴らしてきた。
それこそ古代エジプトの時代から連綿と続くこの一種のガス抜き行動は、現代ではインターネットの世界で日々盛大に繰り広げられている。
有名人のSNSで無名人たちが吐く気楽な誹謗中傷は、彼ら自身の低い自己肯定感を満たしたいが為の一種の対処行動と考えると、共感は困難だが理解は出来る。
他者を攻撃し、マウントを取ることでしか確認することの出来ない自己肯定感。
そこに、発達の偏りを感じ取ることは容易である。
あらゆるモノやヒトが「コンテンツ」として利用・消費される現代社会においては、発達の偏りも例外ではない。
このことに無自覚な人たちは、日々無自覚に搾取され、気楽に他者を攻撃し、何らかの生きづらさは感じつつも、それが自身の発達の偏りからきていることに気づかぬまま齢を重ね続ける。
そしていつか、抑制機能は失われる。
喪われた共同体感覚
コロナ渦で蠢動する、「自粛警察」なる人びとがいる。
自粛警察(じしゅくけいさつ)とは、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言に伴う行政による外出や営業などの自粛要請に応じない個人や商店などに対して、偏った正義感や嫉妬心、不安感などから私的に取り締まりや攻撃を行う一般市民やその行為・風潮を指す俗語・インターネットスラングである。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による社会的風潮のひとつとして生じた。コロナ自警団、自粛自警団、又は自粛ポリスとも呼ばれる。(Wikipediaより改変引用)
僕の周囲にも少なからぬ数の自粛警察がいるが、勿論彼ら彼女らにその自覚はない。
「コロナに罹るのは自業自得で自己責任。」*1
「ちゃんと自粛していたら、コロナに罹るはずはない。」
「このご時世に、パチンコや夜の街に繰り出す人間の気が知れない。」
「コロナに罹ったら、世間に謝罪するのが当たり前。」
「自粛で仕事がなくなると、食べていけなくなる」という、一般の生活者であれば当然抱くであろう恐怖心に想いを寄せ、共感することのない人たち。
インフルエンザや風邪には振りかざすことのない自己責任論を、なぜかコロナには簡単に適用してしまう人たち。
そこに、「困ったときはお互い様」という共同体感覚の喪失を感じ取ることは容易である。
かなうことのないゼロリスクの世界を求め、自分とは異なる考えで行動する他者に社会的掣肘を加えることに疑問を持たず、誰かの寄る辺になる覚悟なく齢を重ね続ける。
そしていつか、抑制機能は失われる。
爽やかな自己肯定感
仕事上、抑制機能が失われた人を多く見てきた。
そのほとんどは認知症の方だが、中には思わず手を取って拝みたくなるような方もいた。
前頭葉によって抑制されていた何事かを感じさせることなく、ただただ尊い存在と思える方たちに出会う度に、その方たちが懸命に育んできたであろう自己肯定感に思いを致す。
記憶を始め、後天的に獲得した様々な能力を手放してもなお、「ありがとうね。おかげさまで。私は大丈夫だよ。」という爽やかな自己肯定感を残すことが出来たら、そのことをもって「良く生きた」と言っていいのではないだろうか。
日々多くの悩みを聴き、毎日何事かをずっしりと肩に背負って僕は家路に着く。
僕に何事かを吐き出していった人たちが、それぞれの自己肯定感を回復できていたらいいなと願う。
そして。
「人の悩みを聴き、何事かを提案する」という生き方を選んだ僕の抑制機能が将来失われたとき、そこに残された自己肯定感が爽やかであってくれることもまた、願う。