ケアマネから医者に届く「ケアマネ連絡票」というものがある。
その内容は、ケアプランの相談や患者さんの近況報告、また介護保険更新のための情報提供だったりと様々だが、先日
家族の希望で施設入所を予定しています。よろしいでしょうか?(原文ママ)
このような質問が届いた。
施設に入所するために医者に許可を求める意味が分からなかったので、非常に困惑した。
もし医者に「ダメです」と言われたら、このケアマネは一体どうするつもりだったのだろう。「お医者さんにダメですと言われたので、施設には入れません」とでも、家族に伝えたのだろうか。
以下のような質問も毎日のように届く。
- デイサービスは週2回を検討しています。いいですか?
- 〇〇に手すりを付けようと思います。いいですか?
そのうちに「好きにすれば?」と返事をしてしまいそうで怖い(しないけど)。
過剰なサービスの押しつけではない、生活支援の観点から親身に提案されるケアプランに対して、こちらは一々異を唱えるつもりはない。そして、親身なのかどうかは短い文章からもほの見えるものである。
国語力を前提とした表現力はあるに越したことはないが、どうも問題はそれだけではないように思う。
- ご家族ご本人と相談して、デイサービスを週2回で始めることにしました
- 玄関上がり口で転びそうになるため、手すりを設置しました
このような事後報告で普通は十分だし、親身な熟練ケアマネほど、事後報告+αで家族情報その他も届けてくれる。それが、患者さんの次回診察に役立つということを分かった上で届けてくれる。
デキるケアマネとはそのようなものだが、ケアマネ全体に占める比率は当然だが少なく、貴重な存在だ。ポケモンのことは全く分からないが、恐らくメタモンぐらいレアな存在だろう(適当)
話が逸れた。
ケアマネ質問票の多くは、よく言えば汎用性の高い、悪く言えば金太郎飴のような、どの利用者さんでも使い回せるであろう定型的なもので、率直に言うと面白みに欠けるものばかりである。
「ケアマネ連絡票に面白みを求められても・・・」と思われるかもしれない。
だが、我々は人を相手に仕事をしているのだから、連携のために発生する書類にも人の存在が感じられるように工夫されてしかるべきではないだろうか。
その工夫を含めて”面白み”と呼びたい。
もう少し分かりやすく言うと、「ちゃんと人を観察して、豊かな自己解釈を入れていこうよ」ということである。
利用者Aさんの夫に対する嫉妬妄想・浮気妄想ですが、40年前の夫の浮気(実際にあったそうです)との関係はないでしょうか。前後の脈絡関係なく突然、「浮気しているんでしょー!!」と激怒され、夫は困惑するそうです。
このような報告を貰うと、「それは関係あるかも。ひょっとするとフラッシュバックを起こしているのかもしれないな。次回の外来で神田橋処方*1を試してみようかな」などとこちらは考えることが出来る。
「Aさんの嫉妬妄想や浮気妄想で家族が困っているそうです。何とかしてください。」といったような、解釈抜きの家族からの伝言を医者に伝えるだけではプロとは呼べない。
プロとは、「専門的見地から解釈や判断をし、実行に移す」ことを生業としている者のことを指す。
診断や処方は医者の専売特許かもしれないが、観察に基づく解釈や判断を医者以外の医療介護職がしてはならない、ということはない。
特に認知症領域ではそうだが、医者が診察室という閉鎖空間で得られる情報には限界がある。
認知症に携わる医者は常に、「プロとしての」ケアマネの意見を必要としていると思って欲しい。
poorな観察眼しか持たないケアマネのpoorな情報を元に、poorな観察眼しか持たない医者がpoorな診断を下しpoorな処方をすると、困るのは患者や家族である。
「認知が進んだ」とか「認知が入っている」などという表現を、医療介護現場から払拭したい。 - 鹿児島認知症ブログ
ところで。
観察眼とは意識して自分で育てるものであり、勝手に育つものではなく人から育てて貰うものでもない。
観察し、解釈し、解釈結果を他者に供覧し、他者の解釈を踏まえて更に観察を重ねることで、現場で役立つ観察眼は養われていく。
それが自サービスの利用者であろうが共に仕事をする同僚であろうが、または生産物の最終消費者であろうが、多くの仕事は「人」の存在を前提とする。よって、解釈やアウトプットは多様となるのが自然である。
多様な人びとの多様な意見が集まれば、どうしても軋轢は生じる。軋轢とは基本的に面倒くさいものだが、工夫を育てる培地にもなる。
工夫の積み重ねで人は成長していくということを考えると、「(適度な)軋轢は人の成長に必要」ということになる。
件のケアマネは、成長を放棄しているのだろうか?
成長したくなければ、軋轢を避ければよい。簡単なことだ。
軋轢を避けるには、仕事の仕組みをマクドナルド化するのが最も効率が良い。つまり、
「最優先事項は人を含めたコストの最小化と利益の最大化。誰がやっても同じ結果になることが求められ、幾らでも代わりがいる仕事。」
である。
自己解釈は求められず、マニュアル通りに効率よく現場を回し続けることが求められる仕事。
洗練されているのかもしれないが、いつ淘汰されるか分からない仕事。
念のために言っておくと、マクドナルドに他意があるわけではない。高度産業化に伴う必然的な帰結を説明しているだけである。
手触りは豊かだけれども摩擦(≒軋轢)も多い”文化”を手放し、摩擦の少ない高度に産業化された”文明”に自らを収斂させていく過程は、「便利になった!」などと単純に喜べるようなものではない。
誰しも少なからずシステムの中で生きることを余儀なくされてはいるが、そのことによる人間性の希薄化、大衆性の増大という負の側面を意識しているかどうかで、システムに飲み込まれるか否かは決まる。
「観察や解釈」を自ら放棄するということは、自分で自分をマクドナルド化するということであり、つまりは、「軋轢を通じて成長することを放棄する」ということである。
没主観性や計量可能性に骨の髄まで浸かり観察・解釈を放棄したときに、人は大衆と化しシステムに飼われる。
システムに飼われ、自分の頭で考えなくて済むことを心地よいと感じる人もいるのかもしれないが、自分はそうなりたくない。
なぜなら。
高次脳機能を手放していく認知症患者さんたちを受けとめ、つなぎ止めようとする仕事に従事する我々が、高次脳機能を駆使して初めて可能となる観察と解釈を自ら手放して良いとは思わないからである。
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