患者さんのご家族から聞いた話を紹介する。
認知症に関わる専門職が、認知症患者のご家族を精神的に追い詰めることがある。
50代女性 アルツハイマー型認知症
アルツハイマー病の診断を受けてから2年間、とある病院にてアリセプト5mgでフォローされていた方。
主介護者であるお姉さんが熱心な方で、ご自身で色々と情報を集め、コウノメソッドやフェルガード(認知症サプリメント)に辿り着いた。しかし、そこから先をどうしたらよいか迷っていたところ、とある人から当院を紹介された。
お姉さんとしては、かかりつけでアリセプトが3mgから5mgへ増量になったあとの変化(感情の起伏の激しさ)が、どう考えても薬の副作用としか思えなかったようだ。しかし、それを当時の担当医に相談すると、減量してくれるどころか怒られることがあったらしい。
当院に来院された時点で、お姉さんの判断で患者さん(妹さん)はフェルガード100Mを朝昼夕1包ずつ内服していた。
フェルガードを開始してからのご様子は、如何ですか?
でも、このままアリセプトを続けていいのでしょうか?
認知症症状の進行抑制効果が謳われていますものね。続ける事がご心配なようでしたら、一旦5mgの半分の量にしてみましょうか?それで活気が落ちたりすれば、また5mgに戻しましょうよ。
その後、大量に残っていた5mgの錠剤を、お姉さんが半分にカットして妹さんに内服して貰ったところ、明らかな自発性向上が得られたとのことであった。
このようなことは、しばしば経験する。
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この方の場合、アリセプト5mgによる抑うつがでていたということである。
責任の所在
この患者さんはとても穏やかな雰囲気をもった方で、対照的にお姉さんは明るくエネルギッシュな方である。そのコントラストが楽しくて、気づけばいつの間にか長話になっていることが多い。
以下は、ある日の外来での会話である。
先生、今はもう何も言われないですが、アリセプトを減らしてフェルガードを始めた時は、それはもう散々まわりから色んなことを言われたんですよ。
「処方箋に書いてあるとおりに、なんで飲ませないんだ!*1」とか、「認知症になったら、みんなこの薬を飲むのが当たり前なんだ!」とか・・・まあ、色々と言われました(笑)
一般的な認識は、大体そのようなものみたいですね。他にはありますか?
そう言えば、当時のケアマネさんには、「アリセプトを規定通りに飲ませないで何かあった場合、それは"家族責任"でいいということですね?」と言われました・・・
「家族責任」とはまた斬新な言葉である。ケアマネが苦々しげに言い放っている姿が、思わず目に浮かんだ。
診察が終わりご姉妹が帰られた後、しばし考えた。
責任。実に重厚な言葉である。責任。
責任など、はなから「家族である」お姉さんは背負っているだろうに。責任を背負っているからこそ、「少しでも悪いことは遠ざけて、良いことをしてあげたい」と頑張っているのだろうに。
自分がもしそのケアマネさんに会うことがあれば、聞いてみたい。
「規定通りにアリセプトを飲んでいて副作用が出た場合、あなたが責任を取るのですか?」
と。*2
それとも、副作用にケアマネさんが気づいたとしても、
「副作用が出ていても、言われたとおりにしっかりとお薬を飲んで頑張っているから偉いですね!!あとは、何かあっても私が責任を持ちますから大丈夫ですよ!!」
とでも言うつもりなのだろうか?まさか、そんなことはあるまい。
薬にも色々あるが、不用意に止めると大変なものは確かにある。例えば血栓予防のための抗凝固薬を不用意に止めた場合、脳梗塞を発症するリスクが高まってしまう。
では、抗認知症薬を止めたら致命的な「何か」が起こるのだろうか?
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今のところの自分の結論としては、致命的な「何か」は起こらないと考えている。止めて不都合(例えば活気や自発性の低下)があれば、また再開すればよいというスタンスである。
しかし、そうは考えない人達もいる。その人達が口を揃えて言う言葉は、
「止めたら必ず進行しますよ」
である。
何故、そう言い切れるのだろう?それは、止めてみないと分からないことなのに。
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ここまで来るとまるで「信じないと地獄に落ちますよ!?」と、脱会しようとする信者を脅す怪しげな新興宗教のようだ。
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そのような人達には、この画をメッセージとして送りたい。

(少女ファイトより引用)
確証バイアスにまみれた人というのは、実に厄介である。
医療介護職が、患者さんやご家族から薬に対する不安を聞いた時、まずはその不安に寄り添い相談に乗り、処方医への提言を検討して欲しいものである。*3
それをせずに、薬全てを一緒くたにして「お医者さんの指示通りに飲まなきゃダメ!」という考えは、ただの思考放棄である。今のご時世、吟味は必須であるにせよ、「抗認知症薬 副作用」で検索したら、幾らでも有用な情報が手に入る。薬に疎い一般の人達ならいざ知らず、医療介護職が「指示通りに飲まないと~」と薬を押しつけるのは如何なものか。
専門職の思考放棄とは、専門性の放棄と同義であろう。
「何か」とは何か?「責任」とは何か?

(北の国から92 「巣立ち」より引用改変)
「何か」が何か定まらず、「責任」をどのように取るのかも明確ではないまま、「何かあったら責任が~」という言葉だけが一人歩きし、頻用されている。
「何かあったら責任が~」とは、裏を返せば「あなたに何かあっても、自分は責任なんか取りたくないんですよ~」と言っているように、自分には聞こえる。
何に対する責任かは知らないが、本当にその責任とやらを取る気があるのであれば、
「私の〇〇という指示に従った結果、△△のような事態が起きたら、私が〜〜という形で責任を取ります」
と言えばいいのである。
しかし、そのようなことは誰も言わない。恐らくそのつもりもない。なのに、しばしば「責任」を口にする。その言葉が、患者さんや家族の心を刺しているかもしれないことに無自覚だからこそ、言える。想像力の欠如は、人を残酷にする。
「〇〇しないと、あなたの責任になりますよ?」
「〇〇を守って頂かないと、こちらも責任が持てません!」
もっと大らかにやれないものか。
そもそも論として、患者さんと出会った時点で医療介護職には「出会う前より少しでも良い状態にしてあげる」ちょっとした責任が生じており、また患者さんや家族側にも、「少しでも良い状態にしてもらうために、医療介護職に情報を提供する」ちょっとした責任が生じているはずである。
これは医療介護職からすれば、当たり前の「職業倫理」の範疇のことであり、患者家族側からすれば、「娑婆で誰かに世話になるときの、当然の配慮」ではないだろうか。
もっと簡単に言えば、『困った時はお互い様』ということでもある。
抗認知症薬を出されたとおりに飲み続け、「何か」があったら「責任」の所在を明確にして、「誰か」が責任をとる。
このようなやり方で、誰が幸せになれるのだろうか?
人が生きるということは、常にリスクと背中合わせである。 しかし、リスクを声高に叫びすぎると殺伐とする。
そして、世の中が殺伐となりすぎないように、各々が責任を少しずつ持ち寄って分担する。それが大人の、あるいは社会の知恵というものである。
大人の知恵を持たない幼稚な専門職に、人生を預けざるを得ない方達がいる。
それもまた人生なのかもしれないが、不条理なことである。