「うちの母は、どのようにしてアルツハイマーになったのですか?」
と聞かれたら、定説仮説を交えて
「タウタンパクの蓄積やミエリンの脱落、重金属の蓄積や生活習慣病などが関与したのではないでしょうか・・・」
などと答えることは出来る。しかし、
「うちの母は、なぜアルツハイマーになったのですか?」
という問いに答えることは難しい。
難しいというか、”医学的に”答えることは事実上不可能である。
それでも、「なぜ?」と聞かれたら何か答えないといけない気分に駆られ、運命論的な話を、自分の家族も含めた経験などを交えながら、相手を傷つけないようにムニャムニャと呟いている。
「傷つけないように」ということには、相当気をつけている。
それは、「do no harm(患者を傷つけてはならない)」という医者の基本に忠実でありたいということ以外に、当院に辿り着くまでに既に傷ついている方たちを更に傷つけたくないと思うからでもある。*1
患者が「なぜ?」と問うているのに、医者が科学に関することや薬についてなど、つまり「どのように?」の話ばかりすると患者や家族は傷つく。
なので、自分が「なぜ?」を聞かれているのか、それとも「どのように?」を聞かれているのか、常に気をつけている。
「認知症は治りますか?」と問われることもあるが、自分はこう答えている。
「今より良くなる可能性はありますが、ご家族が期待するような意味で"治る"ことはないでしょう」
「これは方便だ」と自分に言い聞かせながら、ただただ安心して貰うための軽い嘘を認知症の患者さんにつくことは日常茶飯事だが、医学的に不正確な事を患者さんの家族に言うわけにはいかない。認知症患者さんは忘れてくれても、家族はちゃんと覚えている。「先生は、認知症は治ると言ったのに・・・」と。
「認知症を治します」ということを厳密に言い換えると、
- 神経変性によって起きた退行を、元に戻します
- 残存した神経細胞ネットワークで、これまでの活動を十全に行えるようにします
と保証することである。
今の自分の力では到底無理な話なので、「認知症は治ります」とは言わない。
互いに慣れ親しんだ体系の相克
科学とは「How?(どのように)」を掘り下げる体系で、哲学とは「Why(なぜ?)」を追求する体系である。
医学という名の科学の徒である我々は、ともすると「科学的」ということに捕らわれすぎて、患者が「なぜ?」を問うていることを容易に見逃し、「どのように?」を一人で深掘りしていることがある。または、「なぜ?」を問われていると気づいていても、上手く答えられる気がしないので「どのように?」の話にすり替えてしまうこともある。
観察される事象に再現性を見出し、因果関係を説明出来ることが科学の要諦だが、複雑系である人体の場合、個体差や生活習慣、食事の違いなどが複雑に交絡するため、疾病や症状の表現型や因果関係が分かりやすく常に一定とは限らないし、分からないこともまた多い。
分からないことでも分かったような気にさせてくれるのは統計学だが、「有意差がある」という統計学上の決めゼリフを、同業者に説明するときのように患者に用いても患者の「なぜ?」は解決しない。同様に、「この治療にはエビデンスがある」という決めゼリフも、患者の「なぜ?」の解決には役立たない。
「なぜ?」に答えてくれない医者に対して患者が歯がゆさを感じる一方、聞かれても答えにくい事を聞いてくる患者に、また、自分の説明する「どのように?」を理解してくれない患者に対して医者はもどかしさを感じる。
ある体系のなかで事物を観察し解釈することに慣れていると、そこに別な体系を持ち込まれると混乱する。この混乱こそ、医者と患者の間で起きる様々な齟齬の正体だろう。
つまり、医者は科学を。患者は(自身の)哲学を。
お互いに自分が慣れた体系を突きつけ合い、「どうしたら良くなるのか?」という一致点を探り合っている。
一致点に向けてお互いが取れる行動とは、
- 医者は、自分なりの「なぜ?」に対する考え(哲学)を患者に示す
- 患者は、医者が説明する「どのように?」を自分なりに調べ理解に努める
だろうが、患者が「どのように?」の体系を学ぶことは一朝一夕にはいかず、ましてや認知症患者さんに至っては永遠に不可能である。一方、医者が自分の哲学を患者に示すことは容易であるし、言葉だけではなく態度で示すことも可能である。
哲学を背景に持たない科学(医学)は患者や家族を傷つける凶器たり得るのだが、例えば、
- 進行性の異常行動
- 社会的に不適切な行動・礼儀やマナーの欠如
- 人間的な温かさの低下や喪失
このような、人間性を否定するような文言の並ぶ行動異常型前頭側頭型認知症(bv-FTD)の診断基準を突きつけられて、たじろがない人がいるだろうか。
区別は容易に差別に繋がりうるという苦い歴史*2を我々は経験してきたのだから、科学の持つどぎつさや生々しさを、医者が自身の哲学をもってオブラートに包み患者に伝えることが重要ではないだろうか。
「〇〇さんはなぜ認知症になったんでしょうね。遺伝的に弱い部分があったのかもしれないし、持病の高血圧や糖尿病が少しずつ影響したのかもしれませんね。人生90年が当たり前になってくると、5人に3人ぐらいは認知症になるので大変な時代になったものだと思います。
94歳で亡くなった僕の祖母も認知症で、90歳の頃には僕のことはすっかり忘れていました(笑)。忘れられるのは寂しいことですが、「僕が覚えていたらいいや」って思って接していました。
〇〇さんももう、84歳ですもんね。一昔前ならお迎えが来ていた年齢ですよ。これからも少しずつ衰えは進んでいくだろうけど、もうちょっと一緒に頑張りましょうよ。僕も色々工夫を考えますから。」
全くもって科学的ではないだろうが、ご家族の視線を意識しつつ、「僕が会いたいから」を強調して、医学的には治ることのない患者さんたちに語りかける毎日である。
ところで、「なぜ?」に答えることは出来なくても、「なぜ?」を考える患者や家族と向き合い続けているうちに、彼らが「なぜ?」で悩むことが無くなる場合がある。
狙って出来る訳ではないが、結果的にこれはこれで一種の「なぜ?」に対する解決になっている。
がっぷり四つに組み合ってしまうと、どちらかがうっちゃられずには終われない。
多少なりとも経験を積み世にふりて想うことは、「敢えてうやむやにしておいた方が結果的には良かったというケースは多い」ということである。