鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

「くも膜下出血の術後に失明、執刀医と県を提訴」というニュース。

くも膜下出血と診断され徳島県立中央病院(徳島市)で手術を受けた県内の女性が、執刀医が注意義務を怠ったため両目を失明したなどとして、同病院を運営する県と執刀医に計約1億5600万円の損害賠償を求めて17日までに徳島地裁に提訴した。

 訴状によると、女性は、くも膜下出血により、2015年12月、同病院で開頭手術を受けたが、直後から両目が見えなくなり、両目失明と診断された。嗅覚障害と味覚障害も認められた。手術の際、執刀医が女性の眼球を圧迫しないよう注意する義務を怠ったことで失明したとしている。

 県病院局総務課は「訴状の内容を確認した上で適切に対応したい」としている。(MedPeerx朝日新聞2019年7月28日より。赤文字強調は筆者による。)

 

 

今回は、このニュースについて考えてみる。

 

どのような手術だったのか?(想像)

 

まずは、「くも膜下出血」という病気について説明する。

 

脳は、頭蓋骨の中で「硬膜・くも膜・軟膜」の3つの膜に覆われている。くも膜下出血とは「くも膜の下」、つまりくも膜と軟膜の間で起きる出血のことである。

 

くも膜と軟膜の間にあるスペースは「くも膜下腔」と呼ばれ、重要な動脈が多数存在している。これらの動脈のどこかに、いつの間にか動脈瘤(動脈のコブ)が出来ていて、それがある日突然破れ血液がくも膜下腔に拡がるのがくも膜下出血である。

 

動脈瘤が破れた瞬間の痛みは、「突然始まる、過去にない人生最悪の頭痛」と表現される。

 

くも膜下出血の概要については、以下の記事を参考に。

 

www.ninchi-shou.com

 

女性は、くも膜下出血により、2015年12月、同病院で開頭手術を受けたが、直後から両目が見えなくなり、両目失明と診断された。嗅覚障害と味覚障害も認められた。手術の際、執刀医が女性の眼球を圧迫しないよう注意する義務を怠ったことで失明したとしている。

 

「術直後から両眼失明及び嗅覚障害と味覚障害も合併した」という記載から、「前交通動脈瘤破裂によるくも膜下出血」に対して「両側前頭開頭によるinterhemispheric approach」という術式が用いられたのだと想像する。

 

前頭側頭開頭術

「脳神経外科手術の基本手技」p63より引用改変

 

上図の赤線のように皮膚を切開し目の方に翻転(めくること)すれば、頭蓋骨が見える。頭蓋骨に数カ所の穴を開けて穴同士を繋げると骨が外れる。骨の下には硬膜という膜があり、硬膜を切り広げると脳の表面が見えてくる。

 

切開した皮膚を下方に翻転する際に、眼球が収まっている眼窩という目の窪みの少し上にガーゼを丸めた「枕」を起き、皮膚を浮かせた状態で牽引固定することで、皮膚翻転による眼球への圧迫を軽減する。この操作は前頭開頭術における基本的な処置である。

 

過去に自分が行った前頭開頭術で失明した方はいない。ただし、上記の基本的な処置を行っても失明したという例を聞いたことはある。

 

interhemispheric approach

「脳神経外科エキスパート 脳動脈瘤」p91より引用改変



上図は両側前頭開頭によるinterhemispheric approachで前交通動脈瘤に到達した最終局面だが、動脈瘤前方左右に「嗅神経(嗅索)」が確認できる。

 

患者は仰向けに寝ており、従って重力は写真下方(↓)にかかっている。

 

前頭葉の重さも下に向うため、手術時間が長くなるにつれて徐々に前頭葉は下にずり落ちてくる。この時に、前頭葉に繋がっている嗅神経がズレによって両方とも引き抜かれてしまうと、嗅覚は完全に失われる。嗅覚が失われると、味覚にも影響が出る。

 

これを予防するために、手術の早い段階で嗅神経に手術用の糊を噴霧して骨に固定する操作を行うが、これもまた前頭開頭術においては基本的な処置である。

 

自分は経験したことはないが、この基本的な処置を行い、手術中に嗅神経が引き抜かれた様子が確認出来なかったにも関わらず、術後に嗅覚が脱失していたという例を聞いたことはある。

 

  • 眼球保護のための枕を置く処置
  • 嗅神経保護のための糊を噴霧する処置

 

この2点を行わなかったために失明や嗅覚障害・味覚障害が起きたのであれば、「注意義務を怠った」とされてもやむを得ない。

 

ただし、20年前ならいざ知らず、少なくともこの10年ほどの脳神経外科手術において、脳神経外科専門医が上記の2処置を怠るというのはちょっと想像し難い。訴えられた執刀医が専門医だったかは分からないが、通常この手の手術は専門医が行うものである。

 

もし「注意していたけれども残念ながら起きてしまった」のであれば、それは医療ミスではなく手術に伴い起き得た合併症である。*1

 

その場合、術前に合併症の話がしっかりと行われていたかが争点となるだろう。

 

手術における注意義務とは?

 

実際に契約書を交わすわけではないが、医師と患者の間には一種の契約が発生している。

 

「手術で必ず病気を完治させますので、〇〇という料金を頂きます」といった契約であれば、それは「請負契約」である。

 

請負(うけおい)とは、当事者の一方(請負人)が相手方に対し仕事の完成を約し、他方(注文者)がこの仕事の完成に対する報酬を支払うことを約することを内容とする契約。日本の民法では典型契約の一種とされ(民法632条)、特に営業として行われる作業又は労務の請負は商行為となる(商法502条5号)。(Wikipediaより引用。赤文字強調は筆者による。)

 

「絶対に治します」と患者に言ってあげたい気持ちは医者なら誰しも持っているだろうが、「仕事の完成(≒病気を完全に治す)」を達成できなければ契約違反を問われる「請負契約」という形で手術に臨む医者は誰もいない。我々は、神ではない。

 

では、医者と患者間に交わされる契約とは何かというと、それは「準委任契約」というものらしい。

 

準委任(じゅんいにん)とは、法律行為ではない事実行為の事務の委託することをいう。準委任にも、委任の規定が準用される(第656条)。(Wikipediaより引用。赤文字強調は筆者による。)

 

法律行為ではない事実行為とは、どのようなものであろうか?

 

例えばレストランに行った場合、食べることは事実行為、メニューを見て注文したりお金を払うのは法律行為。お店側からすれば、料理を作ることは事実行為、注文を受けお金をもらうのは法律行為。事実行為と法律行為を意識する機会は少ないと思うが、何を支援するかを考えると、どの行為を支援するかということになり、上記の区別が必要になってくる。高齢者向けを考えた場合、介護や医療そのものは事実行為、介護や医療(事実行為)に関する契約や支払いは法律行為。(東京大学政策ビジョン研究センターより引用。赤文字強調は筆者による。)

 

ここまでをまとめると、

 

【患者は、自分に対して手術を行うことを医者に委任(準委任)し、医者は事実行為として手術を行う。患者は手術に対して法律行為として報酬を支払う。】

 

ということになる。

 

では、今回の裁判で争点になっている、この契約(準委任契約)において医者側に発生する「注意義務」とはどのようなものか。

 

それは、

 

「善良な管理者の注意義務」

 

と呼ばれるものである。

 

注意義務(ちゅういぎむ)とは、ある行為をする際に法律上要求される一定の注意を払う義務をいう。

特定の行為を行ったこと、あるいは、行わなかったことが、一般的な用語法で「不注意」であった場合に、それが法律上の責任を負うことに結びつくためには、当該対象者が注意義務を負っていたかどうか、が問題とされる。

~中略~

善良な管理者の注意義務(善管注意義務)とは、債務者の属する職業や社会的・経済的地位において取引上で抽象的な平均人として一般的に要求される注意をいう(Wikipediaより引用。赤文字強調は筆者による。)

 

 

「抽象的な平均人として一般的に要求される注意」を、今回の例でわかりやすく言い換えると、

 

「一般的な脳神経外科医であれば行う①眼球保護のための枕を置く処置②嗅神経保護のための糊を噴霧する処置、この2点に対する注意」

 

となる。

 

時間との勝負の中で求められる、関係性構築の難しさ

 

くも膜下出血の初期治療は、時間との勝負である。

 

「突然始まる、過去にない人生最悪の頭痛」なので、病院に運ばれてきた時点でくも膜下出血か否かの予想は大体つく。

 

迅速に検査を進め、動揺している家族に検査結果を説明し、治療を行う上で起きうる合併症などについても説明し、同意を得て手術に入る。手術が終われば、その結果を家族に伝えて二次治療(脳血管攣縮対策)を始める。

 

この間は事態が怒濤のように進行していくため、じっくりと医者ー患者家族間の関係性を構築する時間はない。時間はないが、最善を尽くすほかない。執刀医は最善を尽くしたであろうか。家族は、術前にしっかりと説明を受けることが出来ただろうか。

 

くも膜下出血は、全てが上手くいって元気に社会復帰できる確率が20~30%、亡くなるか何らかの後遺症が残る確率が70~80%という深刻な病気である。

 

よって、治療経過如何で遺恨が残る可能性は、他の脳神経疾患よりも高いのかもしれない。 

 

  • 眼球保護のための枕を置く処置
  • 嗅神経保護のための糊を噴霧する処置

 

この2点を執刀医が行わなかったのかどうか、それは自分には分からない。

 

ただ、くも膜下出血の治療にまつわる大変さは身にしみて分かっているので、今後の裁判の推移は気になるところである。

 

 

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*1:眼球保護のためには、翻転した皮膚の下に枕を置くだけではなく、皮膚を牽引するゴムのテンションを必要に応じて緩めたりすることも必要。ただし、術中に突発的な事態が起きてその事態収拾が最優先とされた場合、他の処置が後回しになることはある。後回しになったことまで含めて注意義務違反とされるとしたら、手術は外科医にとっては恐怖でしかなくなるのではないか。