Aさんは、同居する夫と息子さんに伴われて来院した。
「高齢となった父母の、念のための診察」という体であったが、お子さんからは事前に「精神病と思われる母親を診て欲しいが、自分一人の診察だと感づくと絶対に受診しない人なので、父親も連れて行くから形だけでも一緒に診て欲しい」と頼まれていた。
このような依頼を受けることは、しばしばある。
しかし、そのほとんどは「認知症かもしれない母親を受診させるために、形上は夫婦で受診するという体をとってほしい」という依頼であり、「精神病」と家族が表現することは稀である。
精神病とは、幻覚や妄想、思考の抑制などによって、会話や行動にまとまりを欠く病気の総称である。
今では「精神病性障害」と名称が変わったが、認知症のように中枢性の障害が原因の場合には器質性精神病性障害、統合失調症や躁うつ病などのように原因不明とされる内因性の障害の場合は、「統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群(DSM-Ⅴ)」と呼ばれる。
精神病という言葉が世間で使われる場合、多くは「あの人って、言動含めなんか普通じゃないよね?精神病じゃない?」といったものだと思うが、高齢化した親に感じる違和感であれば「認知症ではないか?」と表現するご時世だろうに、Aさんの息子さんはそれをせずに「精神病」と表現した。
今思い起こすと、なるほどと考えさせられる。
冷たい視線
帽子を深く被りイライラした様子で腕を組み、ソファに座った息子さんの様子がまず目についた。
Aさんの視空間認知に問題はなく、長谷川式テストも満点に近い結果だった。質問に対する答え方にも、特に異常性は感じられなかった。
「実生活での衰えはあるのでしょうが、病気と言えるほどの要素はなさそうです。」
認知症外来で言う「病気」とは勿論、認知症のことである。
患者さんの前で露骨に認知症という言葉を使いたくないので病気という言い方をすることが多いが、家族には大体伝わるものだ。
ここで異変が起きた。
それまでジッと目を瞑り一言も喋らなかった息子さんが、被っていた帽子をおもむろに取って
「私がこれほどのストレスを被っていても、母は病気じゃないんですか!?」
と叫んだのである。
その頭には、いくつもの円形脱毛が認められた。
ストレス性の円形脱毛は多々見てきたため驚きはしなかったものの、ふとAさんの表情を見て自分は鳥肌が立った。
Aさんは薄ら笑いを浮かべながら、息子さんを眺めていたのである。
「この子は私のことが嫌いみたいだけど、私は友達が多いし人気者なのよ」
「息子にここまで言われるなんて、私って可哀想だと思わない?」
「親にこんな暴言を吐く息子を叱りもしない主人はおかしいでしょ?」
平然と話すAさんの横で、ご主人は苦虫を噛みつぶしたような表情で「なんでお前は昔から・・・」と言い、あとは無言になった。
以前からAさんはご主人や息子さんを顎で使い、自分では何もしない人だったようだ。食事を用意してくれる息子さんに感謝することなく、食事の内容や味付けには人一倍文句を言う。
「そのうち、介護殺人が起きるかもね!」
と泣きそうな表情で母親に言う息子さんが余りにも不憫だったので、
「Aさん、息子さんが色々してくれることには感謝の言葉があってもいいと思いますよ」
と取りなしを試みたのだが、
「じゃあ、朝ご飯のときには『お陰様でありがとうございます、頂きます』と言えば良いのよね?」
と、しれっとした表情で言うAさんに自分は二の句を告げることは出来なかった。
何らかの治療的介入手段を見出すことは出来ず、かかりつけ医と担当ケアマネに情報提供するに留めるほかなかったが、息子さんには「何かあったら相談して下さい。精神科への相談でもいいとは思いますが」と言い添えた。
その様子を見ながらAさんは、やはりしれっとした表情で、
「じゃあ、わたしも相談に来ていいんですよね?」
と言って、帰っていった。
想定される、ある特性
色々な患者さんを見てきたが、Aさんのような方はついぞ記憶にない。
患者さんには素敵な人もいれば腹の立つ人もいて、それは認知機能低下の有無に左右されないことなのだが、Aさんに感じた鳥肌の立つような違和感の正体は、「病的な共感性の欠如」だったのだと思う。
ヒトを規定する要素として、言語・計算・注意・遂行機能といった高次脳機能以外に、「共感性(共感的態度)」は重要である。豊かな共感性は社会の潤滑油として働き、また、ヒトが社会的生物と呼ばれる所以でもある。
Aさんには、共感的態度というものが全く感じられなかったのである。
ここで、自閉症スペクトラム(ASD)のことが頭に浮かぶ。
ASDでは「共感性の欠如」が指摘されるが、AさんがASDという可能性はあるだろうか?
自分のこれまでの経験では、ASDの人を前にしても「周囲からは変わり者と思われているんだろうなぁ」とは感じるものの、病的な共感性の欠如を感じることはなかった。
これは推測だが、彼ら・彼女らには他者を思いやる心がないのではなく、自分の視点を他者(定型発達者)の視点に置き換えることが極端に苦手であるが故に、(定型発達者から見て)彼らは共感性が欠如しているように見えるだけなのではないだろうか。
この推測を裏付けるような研究はある。
これまで、ASDがある方は共感性が乏しいと考えられてきましたが、本研究において、ASDがある方はASDの行動パターンをする他者に対して、よく共感できるということが示されました。臨床場面への応用として、ASD傾向の強い方ほど、ASDがある方への支援者にふさわしいかもしれないという知見を提供できると考えられます。(京都大学HPへのリンク)
診察の際に困っている彼らの雰囲気に何となく共感を覚える自分は、やはり以前からそう感じていたように多少なりとも自閉傾向があるのかもしれない。
Aさんの態度からは困っている雰囲気は微塵も感じられず、ASDにおいて頻繁に認める独特のこだわりも、家族から聞く限り認めなかった。
「プレコックス感」と呼ばれる、統合失調症の方が醸し出す独特の間や噛み合わなさもAさんには感じられなかった。
ピック病(前頭側頭型認知症)の方が醸し出すピック感も独特な雰囲気がある。
しかし、それ単独で異様というわけではなく、他の認知ドメインも機能低下を来しているため、全体として「これは致し方ないよね」という納得感は感じられるものだ。
しかしAさんには納得感が感じられない。認知機能が保持されたまま、共感性がごっそりと抜け落ちているようなのだ。
共感性の欠如以外にも、「尊大なまでの自己中心性」、「他者を操作しようとする傾向」、「自らの労苦なくして他者に寄生しようとする傾向」、「罪悪感の欠如」、「全体として浅い感情」などを認め、病的なまでの虚言癖こそ確認出来なかったものの、自分はある結論に達した。
プライベートで出会ったらとにかく逃げようとは思っていたが、患者として目の前に現れたらどうするかは決めていなかった。
Aさんは恐らく、サイコパス(精神病質)なのだと思う。*1