改正道路交通法が施行されて3年が経ち、免許を自主返納する高齢者は着実に増えているようだ。
昨年1年間に運転免許証を自主返納した人の数が、1998年の返納制度導入以降最多の60万1022人(前年比17万9832人増)となったことが9日、警察庁のまとめで分かった。
75歳以上の運転者の返納が35万428件(同5万8339件増)で58%を占める一方、75歳未満が同12万1493人増の25万594人と大幅に増えた。
東京・池袋で昨年4月に母子が死亡するなど高齢運転者による事故が相次ぐ中、自主返納への社会的な関心が高まったことが背景にあるとみられる。(時事ドットコムニュース3月9日より引用)
もちろん自主返納率には地域差があり、公共交通機関が充実している都会ほど返納率は高く、地方にいくほど免許の有無が生活に直結するため返納率は低くなる。
上掲したニッセイ基礎研究所の調べによると、返納率は東京都で7.25%、茨城県で3.19%と最大2.27倍の開きがあるそうだ。
では、自主返納によって期待される死亡事故減少についてはどうか。
改正道路交通法が施行された平成29年の高齢運転者による死亡事故は年間418件。
上掲のグラフでは、法施行前から75歳以上の高齢者が起こす死亡事故件数は420〜470件程で推移している。高齢者の母数増加に比例して死亡事故件数が増えている訳ではなく、分子が横ばいなので10万人当たりの死亡事故件数は減少傾向である。
平成30年は460件、令和元年は401件と変動は大きく、令和元年は過去10年では最低の件数となってはいるが、これ即ち改正道路交通法施行の効果と言えるかどうか。
判断はまだ難しい。
免許返納までの実際
高齢者が多い当院では、患者さんたちに運転免許の自主返納を促す機会は多い。
ただ、すぐに返納を迫ることはしない。
それは、事を性急に進めると何が起きるのかを経験しているからである。
www.ninchi-shou.com
今回は、時間をかけて自主返納してもらうことに成功した例を紹介する。
88歳の女性Aさんが、運転免許更新の際に公安委員会から認知機能低下を指摘され娘さんと共に当院を受診したのは2年前のことだった。
運転の頻度は月に4~5回。近所の店に買いものに行く際に車を利用しているが、必ず助手席に娘さんが乗るようにしており、娘さんからみて危なく感じることはないとのことだった。ただし、娘さんは88歳という母親の年齢からして「そろそろ卒業させないと・・・」と焦っていた。
まず頭部CTを撮影したが、異常は認めなかった。
次に認知機能テストを行ったところ、30点満点の長谷川式テストは18点だった。
ところで、警察で行われる認知機能検査では、「時間の見当識」で自分が置かれている日時や時間を把握する力を、「手がかり再生」で記憶力(記銘力)を、そして「時計描画」で空間把握能力を調べている。
運転能力に影響する要素として、この3項目を警察が重視しているということだ。
Aさんは日時見当識(≒時間の見当識)が3/4、遅延再生(≒手がかり再生)が1/6という結果だった。
遅延再生は確かに弱点と言えそうだったが、それ即ち認知症ということにはならず、また自分としては「手がかり再生は運転にさほどの影響はないのでは?」と普段から考えているので重視しなかった。
透視立方体テストは完璧で、時計描画テストで数字の抜けはあったものの、10時10分の針の角度は概ね正しく、全体として空間把握能力は維持されていると思われた。
この結果をもって、自分はAさんに以下のように説明した。
「88歳という年齢を考えると御立派だと思います。運転については恐らく、今のところは大丈夫なのでしょう。
ただし、『85歳を超えると、全年代のなかで突出して死亡事故を起こす確率が高くなる』という統計結果がありますので、そろそろ卒業の準備を始めたほうがいいとは思います。ちなみにAさんは、何歳ぐらいまで運転するお考えですか?」
Aさんはとても喜んでくれた。そして、次のように言った。
先生、私は昭和29年に免許をとってこの方、無事故無違反でやってきました。今も時々運転していますが、危ないと感じたことはまだありません。そう思ったら止めようと思っています。
私としては、きりのよい90歳で免許を返そうと思っています。
「90歳ですね、分かりました。Aさんのことは気になるので、半年おきに僕に会いに来て貰えますか?僕から見て『ちょっと力が落ちてきたな。そろそろ卒業だな』と思ったら、Aさんにそのようにお伝えしたいので。」
不安そうな娘さんをよそに、Aさんは嬉しそうに帰って行った。
自覚的他覚的衰えはあるものの日常生活は自立しているAさんだったので、公安委員会へ提出する診断書には「軽度認知障害」と記載した。軽度認知障害と診断されたら、免許を更新するため半年おきに医師の診察を受けることになる。
「半年おきに僕に会いに来て貰えますか?」とお願いしたのは、「警察がそう決めているから」ではなく、「お医者さんに来て欲しいと頼まれたから、会いに行く」という方が、おさまりが良いだろうと考えたからである。
半年後、Aさんは約束通りに来てくれた。
受けてもらった長谷川式テストの点数は、なんと24点。
視空間認知テストも初回より上手に描けていた。
得意満面のAさんの横で、恐らく「今度こそ免許卒業のはずだ」と思っていたであろう娘さんは泣き笑いの表情だった。ただし、運転自体は相変わらず安全で危なくはないとのことだった。
発揮できる能力が揺らぎやすい高齢者では、認知機能テストの変動はままある。なので、普段から"点"ではなく"線"で経過を診るよう気をつけている。
ただし、2回目の評価の際にはTMT-Aを加えた。
1から25までの数字を系列的に線で結ぶのに要する時間を測定することで、注意障害の有無を判定するテストである。
自動車の運転には、空間把握能力と同じぐらい「注意力」も必要である。
令和元年の警察庁の統計によると、75歳以上の高齢者の死亡事故要因のうち、安全不確認や前方不注意などが、実に48%を占める。つまり、高齢者死亡事故のおよそ半分は「不注意」で起きているということである。
AさんのTMT-Aの結果は137秒だった。
TMT-Aのカットオフ値は諸説あるが、117秒以上かかるようであれば注意力低下ありと自分は判定している。
「Aさん、今回はなんと前回よりもテスト(長谷川式)の点数が良くなっていました。凄いですね、まだまだ力を残していますよ。ただし、注意力が少し衰えていますね。ここは、年に勝てないところかもしれません。次のテストで更に衰えていたら、そこが免許卒業のタイミングになると思います。」
Aさんは頷いて帰って行った。
そして、3回目の外来の日がきた。
まず、初診時に撮影した写真をAさんに見せて、「お変わりなく元気に90歳を迎えることが出来ましたね!」と長寿を言祝いだ。
3回目の長谷川式テストは14点と過去最低で、透視立方体テストやダブルペンタゴン描画は大きな問題は認めなかった。
ただし、TMT-Aが177秒と前回比較で40秒低下していた。
「Aさん、約束の90歳を迎えましたね。注意力のテストの結果が前回よりも下がっていました。パッパッという咄嗟の判断が難しくなっていると思います。ここが、卒業のタイミングだと思います。」
そう告げたところ、 Aさんはおもむろに立ち上がって
先生にそう言われたら免許を返すと決めて、今日は病院に来た。良くわかった。今から返しに行ってくるよ!
と言ってくれた。
そして翌日、「無事に免許返納が終わりました。ありがとうございました。」と娘さんから連絡があった。
関係性を作りながら、流れの中で自然と返納を促していく
こうして、約2年間のAさんとのお付き合いは幕を閉じた。
無事に免許返納が終了して自分もホッとしたが、娘さんは気が気ではなかっただろう。「何でこの医者は、さっさと取り消しの診断書を書いてくれないんだろう?」と、受診のたびに思っていたに違いない。
当たり前だが、運転を卒業した後も人生は続く。
「子どもたちに無理矢理免許を取り上げられた・・・」と恨まれながら、親の人生後半戦に付き合い辛い思いをし続けているお子さんたちを自分は知っている。
知っているからこそ、認知症ではない高齢者に対して「もう危ないから」という理由だけで免許取り消しの診断書は書かない。*1時間をかけて関係性を作りながら、流れの中で返納を促していく。
家族の「早く運転を卒業してくれ」と焦る気持ちに配慮しつつ、本人の「私はまだまだ大丈夫」という自己肯定感にも配慮しつつ。
www.ninchi-shou.com
www.ninchi-shou.com