Fさんは70代の女性である。
「数分前の記憶が抜け落ちる」、「同じものを何度も買ってくる」という訴えで、夫に伴われてもの忘れ外来を受診した。
多少の自覚はあったものの本人は困っておらず、「困った困った」と言い募っていたのは夫だった。
初診時のHDS-Rは28/30で遅延再生は6/6。透視立方体模写と時計描画テストはいずれも正確に描画出来た。
頭部CTで明らかな異常所見は認めず、自覚的なもの忘れはあるも日常生活は自立していることから、診断はひとまず「軽度認知障害(MCI)」とした。
これは、初診から4年経った現在のHDS-Rと透視立方体模写と時計描画テストである。少なくとも、テスト上は全くと言って良いほど衰えは感じられない。
4年の経過中のある一時期、HDS-Rが20点まで低下したことがあった。
日時見当識と遅延再生の失点が主であったため、「アルツハイマーへと移行してきたのか?」と思ったが、その後点数は再び上昇した。
しかし、「数分前の記憶が抜け落ちる」、「同じものを何度も買ってくる」という夫の訴えは今でも変わらない。変わらないどころか、その訴えは以前にも増して執拗になっている。
Fさんに起きていることは、どのように理解すべきなのだろうか。
手紙に書かれていたこと
ある日のこと。
診察前にFさんから手紙を頂き読んだ。そして、それまで何となく自分が感じていたことが、確信に変わった。
先生には、私の脳の不具合を調整すべく薬剤を処方して頂き、有り難く御礼を申し上げます。
家庭では何かにつけ夫が厭味を言っており、夫に心を開くことを止めました。必要最低限の発言のみ、夫に対して発しています。夫に笑顔を見せることもしなくなりました。(夫は私の認知症が悪化したと思っていることでしょう)
便箋にして4枚の手紙には、自身の生い立ちから亡くなった父母への敬愛の念、馴れ初め当初から感じていた夫への不信感などが穏やかな筆調で綴られていた。
何はともあれ、私も齢〇〇歳。先は短いのだから一日一日を心穏やかに過ごしていきたいと思っています。(夫のイヤミも「いつものこと」と聞き流すことにして)
加えて、先生から処方して戴く薬剤を「頼みの綱」にして、前向きに日々を生きていこうと思います。
今後とも、何卒宜しくお願い申し上げます。乱文・乱筆をご容赦下さいませ。〇〇拝
よほど夫に見せようかとも思ったが、受付スタッフにそっとこの手紙を渡したFさんの心情を慮って、止めた。
解離性健忘
一般的な呼び方としての「もの忘れ」のことを、医学的には「健忘」と呼ぶ。
健忘(けんぼう、Amnesia)は記憶障害のうち、特に宣言的記憶の障害された状態を指す。宣言的記憶(陳述記憶)とは記憶のうち言語で表現できる種類のもの、エピソード記憶や意味記憶のことである。
一般的に言う「もの忘れ」から「記憶喪失」まで含んだ概念である。 なお、この「健忘」の「健」は「甚だ」の意であり、「健闘」の「健」と同様である。(Wikipediaより引用)
個人が経験した具体的な出来事の記憶を「エピソード記憶」と呼ぶが、これが一般的な意味で記憶と呼ばれるものである。
ちなみに、認知症の検査でよく行われる長谷川式テストやMMSEのような検査では、エピソード記憶の評価は困難である。
数分前のことを忘れ、同じものを何度も買ってくるFさんに健忘(エピソード記憶を忘れる)が起きていることは間違いないが、ではその健忘は「何」に由来しているのだろうか。
我々は通常、あるイメージを持って生きている。それは、
【自分という存在は、過去から現在まで途切れなく続いている「ひとまとまりのもの」】
というイメージである。
記憶や思考、感情、意識、感覚といったピースが総合されて「ひとまとまりのもの」となる訳だが、各ピースが様々な理由で失われ一貫性がなくなることを「解離」と呼ぶ。
健忘を起こす代表的な病気は認知症だが、強いストレスによって引き起こされる健忘のことを「解離性健忘」と呼ぶ。*1
A.重要な自伝的情報で、通常、心的外傷的またはストレスの強い性質をもつものの想起が不可能であり、通常の物忘れでは説明ができない。
注:解離性健忘のほとんどが、特定の1つまたは複数の出来事についての限局的または選択的健忘、または同一性および生活史についての全般性健忘である。
Bその症状は、臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
C.その障害は、物質(例:アルコールまたは他の乱用薬物、医薬品)、または神経疾患または他の医学的疾患(例:複雑部分発作、一過性全健忘、閉鎖性頭部外傷・外傷性脳損傷の後遺症、他の精神疾患)の生理学的作用によるものではない。
D.その障害は、解離性同一症、心的外傷後ストレス障害、急性ストレス障害、身体症状症、または認知症または軽度認知障害によってうまく説明できない。(DSM-Ⅴより引用)
慢性的にご主人からストレスを受け続けた結果、Fさんは解離性健忘を起こしたのだと思われる。
記憶障害に留まらず、失行や失認など高次脳機能障害が経時的に必ず加わってくるのが認知症だが、4年経過をみてきたFさんに起きているのは記憶障害のみであることから、少なくとも現時点では認知症は否定的と言ってよいだろう。
破綻した夫婦像
解離は防衛機制*2であり、また、一種の心理的破綻でもある。
「夫に心を開くことを止めました」と手紙に書いてあったが、診察中にご主人が喋り出した途端にFさんの表情はなくなり仮面様顔貌となる。この瞬間、防衛機制のスイッチが入るのだろう。
その間の当方とご主人とのやりとりは、恐らくFさんの心には届いていない。そして診察が終わり退室する頃には表情が戻り、笑みを湛え頭を下げて帰られる。
件の手紙については秘めたまま、夫には様々な言い方で「認知症ではないと思いますよ」と説明し続けているが、既に妻を認知症と確信している夫に理解して貰うことは困難だろうと、半ば諦めている。
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Fさんからすれば厭味と感じることを、夫は"よかれ"と思ってやっている。夫なりに、「自分がなんとかしなければ」と懸命なのである。
妻に心を閉ざされていることに、夫は気づいていないのだろうか?
それとも、薄々気づいていながらも、そのことを認められずに執拗になっているのだろうか?
人間世界の悲劇が、確かにここには在る。
薬物療法もそれなりには試みてきたが、勿論改善らしい改善はなく、今は少しずつ撤退に入っている。
幸いにして、これまでの経過中に薬による副作用は起きていない。