「認知症の確定診断をお願いします」という言葉を聞くたびに、蘇る苦い記憶がある。そして同時に、
「その確定診断とは、誰のための、何のための診断ですか?」
という想いが心に浮かぶ。
70代男性 特発性正常圧水頭症
ある日、外来に一本の電話が入った。高速道路を逆走してしまった男性の診察依頼であった。
翌日、警察と家族に伴われて来院されたその方は、見るからに憔悴していた。
診察の結果、最も疑った疾患は特発性正常圧水頭症(iNPH)であった。いわゆる「手術で治る」と言われる認知症である。
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同伴した警官は、「当然免許は取り消しですよね!?」とばかりに息巻いていた。しかしその方はお一人暮らしであり、車がなくなるとすぐに生活に影響が出ることが予想された。
iNPHを疑った場合、次に行うのはタップテスト(髄液排除試験)である。すると、ご家族も(当然だが警察も)気づいていなかった転びやすさや頻尿、活気低下といった症状に明らかな改善が得られた。念のために他院に依頼してSPECT検査(脳血流をみる検査)まで行ったが、その結果変性性認知症を合併している可能性は低いと判断した。
これはつまり、現在のこの方の認知面に最も影響を及ぼしているのがiNPHということであり、尚且つタップテストで改善したということは「手術で治る」可能性が高いということである。
以上をご本人とご家族に説明したところ、治療をご希望されたので手術入院の予約を取った。
しかしその後しばらくして、ご家族からキャンセルの連絡が入った。連絡を受けた看護師さん曰く、特にキャンセルの理由は仰っていなかったとのことであった。
警察からの連絡に、言葉を失う
そのキャンセルの連絡から日にちが経って、ある日警察から問い合わせがあった。
警察「○○さんのことについて、ちょっとお時間を頂き教えて欲しいことがあるのですが。」
そして約束の日時に訪れた警官から、以下のような話を聞いた。
「実は先日〇〇さんが、自宅で不審死の状態で発見されました。こちらでの検査や治療経過がどのようなものであったのかをお聞きしたくて、今日は参りました。」
最後にお会いしたときの、どこか寂しそうな表情が脳裏をよぎった。
「変死」であれば他殺の可能性が残るが、その警官は「不審死」と言った。事件性はないということである。であれば、残る可能性は「病死」か「自殺」である。*1
病死の可能性が濃厚であれば、通常は使用薬剤や診察経過や検査結果について、もう少し掘り下げて色々と質問されるだろうと思ったのだが、来院した警官は「あくまでも形式上伺っておきます」といった感じの事務的な態度に終始していた。
あまり詳しいことはこちらからは聞けなかったのだが、手術に備えて済ませていたレントゲンや心電図、採血などの基礎的術前検査では、特に大きなリスクを抱えている方ではなかったことから、*2認知症(特発性正常圧水頭症)と診断されたことに絶望して自ら命を絶ったのだとしか思えなかった。*3
「診断」が人に与える心理的負担
病気を告げられたとき、それが重大な疾患であればあるほど人は動揺する。ガンはその最たる病気であろうし、近年では認知症もその一つかもしれない。
この方には、入院前の説明として以下のように話をしていた。
「〇〇さんは、特発性正常圧水頭症という病気だと思います。これは手術で改善する可能性が非常に高いので、是非しっかりと治療を受けることをお勧めします。」
今は難しいかもしれませんが、手術が無事に終わって具合が良くなれば、また運転は再開できると思いますよ。」
認知症というニュアンス*4は極力出さずに、尚且つ治療で改善する可能性が高く、また元の生活に戻れるであろうことを強調して治療への不安を取り除こうと努めた。
それでもこの方にとっては、その「診断」が受け入れがたいものであったのだろう。
「自分が診断したことにより、人が一人自ら命を絶ったのかもしれない」ということが、その後大きく自分の背中にのしかかっている。一生背負って行かなくてはならないことである。
この事件以降の自分
この出来事以降、自分の患者さんへの説明のニュアンスは変わった。
それまでも露骨な言い方はしないように努めてはいたが、認知症患者さんを前にして「あなたはアルツハイマー型認知症です。」などということは最早なく、「アルツハイマー的要素はあるのかもしれませんが、しかし・・・」といった表現になった。
このような曖昧な表現を嫌う人はいる。
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しかし、患者さんを失った経験を持つ側からすると、「確定診断を!」と求める人々を前にした時、
「あなたは本当に”診断”という現実に、躊躇無く立ち向かえるのですか?」
と、心の中で想ってしまう。
人は、自分が見たいと思う現実(願望)しか見ようとしない。勿論自分もそうである。
自分がこの方に見たかったのは、「手術を無事に終えて正常圧水頭症が改善した後に、また気楽な一人暮らしに戻り、車も運転できる」という現実であった。その現実を見たくて、治療を勧めた。
しかしこの方が見てしまった現実は、「まさか自分が認知症と診断されるとは・・・生きていてもしょうがない・・・」であったのかもしれない。
そこには、人が見たくなかった現実を突きつける仕事をしている、医者という自分がいた。
このことは、どうしても思い出してしまう。「先生、確定診断を〜」と問われる度に、思い出してしまう。
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