数年間、外来でお付き合いしている患者さんがいる。
患者さんと言ったが、実は、自分はその方を患者と思ってはいない。
受けとめられない現実
既に日本人の平均寿命を越えたAさんが認知症外来に訪れたのは、そもそもご自身の希望ではなかった。
Aさんは、「この人は認知症に違いない」という確信を持った家族(Bさん)に連れて来られた方なのであった。
礼節を保ち、落ち着いた挙措で質問に応じるAさんからは、変性性認知症の要素は欠片も感じられなかった。それどころか、自分の心配をするBさんを労る余裕すら見受けられた。普通なら「なんで自分がこんなところに・・・」という憮然とした態度になってもおかしくはない。
一応は長谷川式テストや視空間認知テスト、頭部CTも行いはしたが、やはり異常は認めなかった。
ここで多くの場合、家族は「心配だったけど、病気ではなかったんだ・・・」とホッと胸をなで下ろす。しかし、Bさんはひと味違っていて、
「そんなはずはない!」
という確信を持ち続け、数年が経過した今でも外来にAさんを連れてくるのである。
平均寿命を越えていることもあり、流石に加齢に伴う意欲や活気の低下はあるものの、認知機能テストの点数は年間で1点ずつ程度の低下にとどまっている。つまり、病的な認知機能低下はきたしていないということである。
ただし、今のAさんの眼差しからは、かつては存在したBさんへの労りの感情は感じられない。それどころか、こちらがゾッとするほど白けた表情でBさんを眺めるようになってしまった。その理由を想像することは容易い。
Bさんは、なかなか自分の思うような認知症治療(そもそも自分はAさんを認知症と診断してはいないのだが)をしてくれない当方に業を煮やし、去っていったこともあった。しかし、程なくして戻ってこられた。恐らく複数の病院を渡り歩いたと思われるが、こちらから敢えて聞くことはしていない。
行った先々の病院で、Bさんは現実を突きつけられたであろう。
「Aさんは認知症ではない」
という、自分が見たくない現実を。*1
それでもなお、Bさんは変わらない。確証バイアスに嵌まった人を変えられる言葉を、自分はまだ持てないでいる。恐らく、一生持てることはないだろう。
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なんで私の話を聞いてくれないの?
なんで私の望むような反応を返してくれないの?
なんで誰も手を差し伸べてくれないの?
なんで私がこんな目に遭わなくてはならないの?
なんで?なんでなの?
このような想いを持ち続けるかぎり、いずれは他者を病気扱いして自分を納得させるか、もしくは自分を病気に追い込むしか道はない。いずれにしても、辛く苛烈な道である。
「もう、別れるしかないのでは?」
ある種最強の解決策の提案が喉元まで出かかっても、医者としてはまだしも人としては言えず、いつもグッと飲み込んで終わる。
夫婦の間には、医者の理解が及ばないことなど幾らでもある。人生には折り合いをつけられないことも、ままあるだろう。
他者を受容するために必要なこととは、その人を白か黒かに峻別することではなく、(敢えて)灰色で受けとめることではないだろうか。
Bさんの想いを聴き続け、報われないと知りながらも時に諭し、その様子を白けた表情でAさんが聴いているのを自分は見続けてきた。この三者が三様に満足を得られる日は恐らくこないだろうという想いを持ちながら。*2