世の中には、健康や病気に関する様々な情報が溢れている。
何も気にしていないという人は恐らく少数で、多くの人が何らかの健康情報を耳にしては試し、上手くいったり失敗したりしながら日々生きている。
自分の経験をブログやSNSで発信している人も多い。
ブログには報告者の「色」が入り込むものだが、他者への誹謗中傷とも思える苛烈な口撃(攻撃)が入り込むのを時々見かける。
その傾向は途中で転向(≒路線変更)した人に多いようだが、過度の攻撃性を発揮する彼らが抱えているであろうルサンチマンの深刻さには、時に慄然とすることがある。
認められないことや報われないことがルサンチマンを募らせる根源にあると考えれば、それが深刻であればあるほど、拗れた承認欲求に繋がりやすい。
承認欲求とは一種の防衛機制だが、防衛機制(≒心理的自己防衛)のために敵を設定した時点で、敵に依存することになる。
そして、依存はいずれ価値を反転させて攻撃に転じ、その先に待つのは”執着”である。
彼らはそれに気づいているだろうか。
中には、元のグループに所属しつつも巧妙に別路線を採る人もいる。
世知辛い世の中だ。
ところで。
そもそも、各々が信じた”何か”は、自分で選択した「手段」だったのではないだろうか。
「手段はあくまでも手段であって、目的ではない」と考え自分は生きているが、手段が生きる目的になってしまう人は世の中に一定数存在する。
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患者は、医師に提案された手段を自分で選択し、もしもそれが自分に合っていなければ、その医師と相談して新たな手段を講じるか、または別の医師を受診する。*1
医師は、患者にとって最適と思われる治療法(手段)を自分で選択し提案し、それが上手くいけば患者と共に喜ぶ。上手くいかなければ、患者と相談しながら方針の修正を図る。
ただそれだけのことである。
患者「私は〇〇を自分では選択してない。有名なA医師に選択させられたのだ。信じていたのに・・・・。ウワーン(ノД`)」
医師「私はB医師の勧めに従って、〇〇を行ってきた。上手くいかない事例に遭遇して患者の具合が悪くなった。〇〇は安全だってB医師は言っていたのに・・・・・・・。ウワーン(ノД`)」
自己責任ということを言い過ぎると殺伐としてしまうが、「自分という主体が選択した」事実を置き去りにしたまま、かつてはaddictした対象に手斧を投げる行為を見かける度に、自立した大人が持つべき責任と分別ということについて考えさせられる。
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Axe Fight flickr photo by Laurel Fan shared under a Creative Commons (BY-SA) license