日差しが少しずつ柔らかくなり、冬の名残が路傍に吸い込まれ消えていく頃。
リツ子に加わっていく様々な変化に、涼子は驚きと焦りを感じていた。
「ねぇ、お義母さんまたお味噌買ってきてたよ。これでもう四つ目」
夕食の片付けをしながら、テレビを観ている裕一に声をかけた。
努めて冷静に言ったつもりだったが、いつもの返答が帰ってくることを恐れてか、その声音は緊張でわずかに上ずっていた。
「母さん、昔から安売りの度に買い置きしてたじゃん。いつも通りじゃないの?」
また、いつもの、いつも通り。
(お義父さんのときは「早くしないと手遅れになる」って言ってたくせに・・・)
涼子は、リツ子の衰え方が昭吉とは明らかに質が異なっていることに気づいていた。
義父母の手前もあり、これまでは裕一の考えに極力異を唱えないよう心がけてきたが、今回ばかりはそうも言っていられない。
「郵便で届いた書類を冷蔵庫に入れてたりとかもあるんだよ。それでも、いつも通りって思う?」
「母さんもう80過ぎだし、年寄りってそんなものじゃないの?」
「じゃあ聞くけど、お義父さんの時にそんなことあった?」
スイッチが入ってしまった。
「あの時はあなた、『早く医者に診せないと手遅れになる』って言ってたよね?お義母さんはお義父さんの時より明らかにおかしいし、しかも悪化していると思うんだけど、それって全部わたしの思い過ごしなのかな?」
そして、言わずもの嫌みがつい出てしまった。
「それこそ、早くしないと手遅れになるんじゃないの!?」
裕一はため息と一瞥を涼子に投げ、自分の部屋に入りその夜は出てこなかった。
翌月、涼子は予約していた物忘れ外来にリツ子を連れていった。
そこはかつて昭吉も受診したことがあり、また涼子が普段通っているクリニックでもあった。
事前に医師から勧められたとおりに、「お義母さん、久しぶりに健康診断を受けに行きましょうか」と誘ったら、嫌がることなく来てくれた。
診察室でリツ子は少し背を丸めながら、医師からの質問とは関係の無い、自分の知り合いのことをぽつりぽつりと繰り返し話した。
会ったことはないであろうリツ子の知り合いのことを、医師は「○○さんがねぇ、なるほどねぇ」と、一々相づちを打ちながら聞き入っていた。
日にちの感覚が衰えていること。それを指摘しても意に介さないこと。
冷蔵庫の中に同じ食材が溢れていること。同じ事を何度も聞いてくること。
涼子は、ここ数ヶ月の間でリツ子に加わった変化について、事細かに医師に伝えた。
その後、いくつかの認知機能テストが行われた。
昭吉も以前受けたことのある長谷川式テストは、30点満点の16点だった。
(お義父さんは25点だったって、確かお義母さんは言ってたっけ...)
時計の絵を描く課題で、数字を中心に寄せすぎて書き隙間だらけとなった絵を見て首をかしげながら「変ねぇ」と呟くリツ子を見て、涼子はもう否定することは出来なくなっていた。
「テストの結果と、頭のCTで確認できた脳萎縮の程度から、お義母さんは恐らくアルツハイマー型認知症だと思います。」
やっぱり。予想は間違っていなかった。
診断結果を喜ぶ気持ちは勿論なかったが、夫に対して「それ見たことか!」という気持ちが涌いたことは否めなかった。
夫の裕一は、母親の衰えから目を背け続けている。
私の方が、お義母さんのことをちゃんと見ている。
あんなに苦手だった、あのお義母さんのことを。
若い頃は悩んで体調を崩すほどだった嫁姑の確執は、老いた昭吉をいたわるリツ子の甲斐甲斐しさを近くで見続けてきたことで、涼子にとっては既に過去のものとなっていた。
昭吉に対するリツ子の献身ぶりは、「私にはとても、ここまでは出来ない」と涼子に思わせるに十分だった。だがそれは同時に、自身の裕一に対する想いが試されているということでもあった。
(一人で抱えることになるかもしれないけど、私がやるしかないよね...)
決意を固めつつある涼子の横で、リツ子は所在なさげに診察室の片隅を見つめていた。
「リツ子さん、昭吉さんがお亡くなりになって寂しいことでしょうね。お線香を上げ続けるためにも、まだまだ元気でいてくださいね。体操教室や健康教室への誘いがあったら、ぜひ参加してくださいね」
医師の方に向き直ったリツ子の目に、少し光が戻った。
「……あなた、もしかして以前に主人を診てくださった先生?」
「そうですよ。お久しぶりでしたね。」
やっと安堵の表情を浮かべたリツ子を見て少し心が軽くなった涼子は、次回の診察の予約をしてクリニックを後にした。
帰宅後、診察結果を聞いた裕一は眉をひそめた。
「え、薬は出なかったの?認知症って診断されたのに?」
「まずは介護保険の申請をして、みんなでお義母さんを支えていく体制を作ることが優先だって言われた。薬については、副作用の懸念もあるから慎重に検討していきましょうって」
「ふーん……なんかのんびりしてる感じだなぁ」
この人は恐らく変わらない。
お義母さんのために、やっぱり私がやるしかない。
「介護保険は私が申請するわ。やり方は教えて貰ったから」
「助かるよ。オレは仕事で忙しいし、こういうことには、男は首を突っ込まない方がいいだろうから」
涼子はもう何も言わずに、リツ子の今後について想いを巡らせていた。
(続く)

(第1回)
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