鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

(第1話) 静かな別れ。

昭吉が息を引き取ったのは、冬の終わりだった。

 

その朝、雲一つない空が広がっていた。庭の蝋梅が黄色い小花をつけ、まだ冷たい風に揺れていた。老いた身体はいつかの夕暮れのように静かで、最期の吐息は、まるでその風に紛れて消えていくようだった。

 

「よく頑張ったね、お父さん」

 

静かにそう言ったリツ子の涙はすでに、枯れていた。

 

八十七年の人生。

 

昭吉は、最後まで自分の名前を忘れることはなかった。新聞を読み、時計を見て、日々の流れをしっかりと把握していた。病的な物忘れとは無縁のまま、緩やかに衰弱し、そして天寿をまっとうしたのだった。

 

告別式には近所の人も何人か来てくれた。

 

町内の人たちは口を揃えて、昭吉は最期までしっかりしていた、と言っていた。
実直で口数は少なかったが、ゴミ出しや回覧板を回す役割もきっちり守っていた。

 

息子の裕一は、昭吉の棺に触れながらぽつりとつぶやいた。

 

「俺、親父に何もしてこなかったな……」

 

その言葉に返す者は誰もいなかった。

 

涼子は、ただ黙って棺に白菊の花を手向けた。

 

昭吉の葬儀が終わり、日常が静かに戻ってきた。

 

そして、誰もいない食卓に独りぽつんと座るリツ子の姿を、家族はしばしば目にするようになった。

 

「お義母さん、大丈夫ですか」

 

涼子が気を使って声をかけると、リツ子は微笑んだ。

 

「大丈夫よ……ありがとね」

 

だがその微笑みの裏に、どこか遠くを見るような焦点の定まらない眼差しがあった。

 

ある日涼子が帰宅すると、いつものようにぼんやりとテレビの前に座っているリツ子がいた。

 

何かが焦げているような臭いがしたので台所に行くと、鍋に火がかかったままだった。

 

「お義母さん、鍋……!」

 

慌てて思わず声を荒げた涼子の方をリツ子は一瞬チラッと見たが、すぐに何事もなかったかのようにテレビに顔を向けなおした。

 

それは始まりだった。

 

リツ子は静かに、しかし確実に、過去と現在の境を曖昧にしはじめていた。

 

(続く)

 

静かな別れ

 

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