勤務医時代よりも意識して、患者さん達に愛想良く振る舞おうと努力している自分がいる。院長が無愛想なクリニックには、誰も来たがらないだろうから。
医師の愛想や機嫌の良さは、患者さんやご家族に安心して頂くために必要なスキルということは理解しているので、そこは自分でも不思議なほど無理なく振る舞えている。そのおかげかどうかは分からないが、過去に患者さんやご家族と大きく揉めたことは記憶にない。
同様に、医療現場のスタッフとも現在過去含めて大きく揉めたことはない(多分)。
検査を行ったり投薬したり手術をしたりという仕事以外に、看護師や他のコメディカルスタッフに指示を出したり、また指示を求められたりするのが医師の仕事である。
その医師が不機嫌だったり大声で怒鳴ったりすると、周囲のスタッフは萎縮してしまう。スタッフが萎縮すると重要な報告が上がってこなくなる可能性があり*1、その不利益を被るのは最終的には患者さんとなる。
「医者は、どんなにピンチの時でも他のスタッフの前で取り乱してはダメだし、声を荒げて怒鳴るなんて論外だよ。」
これは、自分が駆け出しの頃にある先輩が教えてくれた言葉だが、今でも大事に守っている。
言外のコミュニケーションを大事にしたい
仕事中は全方位に向けて極力愛想良く努めているからか、仕事が終わると疲労感がどっと襲ってくる。
以前はその疲労感を、外で酒を呑むことで癒やそうとしていたが、所帯を持ってからは家で家族とゆっくり過ごすことで回復に努めている。
仕事後に講演会に出席したり、他の医師と情報交換を行ったりすることは、特に開業してからは殆どない。というか、努めて避けている。
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昔から、一般的な意味での"社交"というものが苦手だからである。
社交(しゃこう、独: Geselligkeit、英: sociability)は、一般に、人と人との交際、世間のつきあいを意味する。(Wikipediaより引用)
『言語化できない感情の機微を互いに感じ取りながら、言語を介さないコミュニケーションを図る』というのが自分のやりたい社交である。
一例を挙げる。
大学時代の一時期、毎日のように一緒に時間を過ごしていた友人がいた。
無愛想な自分に付き合ってくれた彼は、例えるなら"野放図な袋"だった。
お互い黙って酒を呑みながら、時々相手の表情を観る。相手の表情を観て、「自分も多分、同じ表情をしているのだろうな」などと考える。そしてまた呑む。時間だけが過ぎていく。
今でもたまに当時を振り返るが、このようなことが出来る相手は数えるほどしかいない。
言語化の重要性を否定する訳ではないが、言外のニュアンスも含めたコミュニケーションの重要性を理解していない相手との"言語のみ"のやりとりの後には、消耗感しか遺らない。
自らの未熟さを敢えて承知で言うが、一般的な社交の多くは駄弁の応酬に過ぎない。
ただ、社交の玄人達は駄弁の中からも何事かを拾い上げていくのだろうと考えると、その努力を全くする気がない自分はやはり社交に向いていないのだと思う。
他者と付き合いながら生きていくほかないのが人間の宿命ではあるが、オルテガ流にtogether and alone、「一緒に、独りで」というのが自分にはあっているのかもしれない。
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