肉親や知人の死、子供の独立、自身の病気。
加齢に伴う何らかの「喪失」に遭遇したとき、人は自分に残された時間を考える。そして、「自分には、あと幾つの選択肢(選択権)が残っているだろう?」とも考える。
子供は選択権を持たない状態で生まれ、成長して徐々にその権利を獲得していく過程で、必然的に親とぶつかる。そして年をとった親の面倒を見るようになると、自分が子供の頃に苦労して獲得していった選択権を、今度は親から奪うようになる。
「お父さんも年を取ったんだから、しょうがないでしょ?」
「ちょっとは私の言うことを聞いてよ!!」
診察室内で時に、このようなやり取りに遭遇することがある。親を叱るそのお子さんは、自身が小さい頃には
「あなたはまだ子供だから、しょうがないでしょ?」
「ちょっとは親の言うことを聞きなさい!!」
などと親から言われていたであろうことを想像すると、思わず笑いがこぼれそうになると同時に、人生における皮肉と哀しさを感じる。
周囲には一見理解しがたい高齢者の怒りの理由の一つに、「選択権を奪われる事に対する怒り」があるように思う。
自ら肩の荷を下ろすことと、人から無理矢理下ろされることは同じではない。今度の道路交通法改正で、どれだけの高齢者が無理矢理肩の荷を下ろされる羽目になるのだろう?
車の運転とは後天的に獲得した権利である。しかし同時に、他者を害しないことが前提という意味では、義務を伴った権利でもある。義務を伴った権利を持ち続けることは、本人が気づこうが気づくまいが、どこかの時点から負担になってくる。
自ら「運転」という肩の荷を下ろした気分になれるような上手い説明の仕方はないものか、考え続けている。
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Mother & Daughter - Through the Window flickr photo by Lili Vieira de Carvalho shared under a Creative Commons ( BY-ND ) license