医者という仕事をしていながらこういうことを言うのもアレだが、自分は極力病院にはかかりたくないと思っている人間である。*1
認知症診療をしていて時にやりきれなくなるのは、「私はどこも悪くないし困ってもいなのに、なんで病院にこなくちゃいけないの?」と、怒りを露わにして患者さんから言われたときである。
「あなたじゃなくて、周りが困っているから・・・」などとは言えない。
認知症初期集中支援チームが持ち込んでくる案件でも、「近隣住民の不安が高まりつつある」という文言が添えられているのを目にすることがある。
「早期発見・早期介入」とは聞こえの良い言葉だが、誰のための早期発見・早期介入なのか、どこまでが本人のためで、どこからが家族や近隣住民のためなのか、もはや分からなくなることがある。
そういう時に想い出すのが、離島で仕事をしていた頃に経験したあるケースのことである。
70代女性 何らかの認知症
ある日、70代の女性(以下Aさん)を80代の民生委員のおばあちゃん(以下Bさん)が連れてきた。ちなみにBさんは、自分の外来に通院中の方である。
Bさん「先生、この人は私が昔から面倒を見ている人なの。息子さんが遠くで働いていて、全然島には帰ってこないのよ。最近どうもボケてきたように思うんだけど、どうかね?」
横でAさんはにこにこ笑っている。
Aさん「この人には昔から世話になってね~」
Aさんは血圧が高く、また少し足を引きずるような歩き方をしていたので、念のためにと断って頭のCTを撮らせてもらったところ、古い脳梗塞の痕がいくつか見つかった。また、海馬の萎縮は年齢相応とは言えなかった。
外来がたてこんでいたところに飛び込みで来られたため、長谷川式テストや細かな病型診断こそ行わなかったが、認知症であることに疑いはなかった。穏やかでにこにこした表情からは、中等度進行したアルツハイマー型認知症の可能性を何となく考えた。
私「古い脳梗塞の痕はありますね。血液さらさらのお薬や血圧を下げるお薬は、飲んでおいて損はないでしょうけど、通院は大変じゃないですか?」
Bさん「そうなのよ! Aさんを連れてくるのは私しかいないんだけど、アタシもまあ年だからねぇ。今すぐどうこうというわけじゃなければいいのよ。また何かあったら連れてくるね。その時は、先生よろしく!」
そう言って、BさんはAさんを連れて帰った。Aさんは終始にこにこしていて、Bさんを信頼しきっているように見えた。
2年の間で数回、BさんはAさんを連れてきた。Aさんはゆっくりと衰えてきているようだったが、認知症の周辺症状を拗らせているようには一切みえず、Bさんもそのような事は言わなかった。かわりに、
「アタシもいつまでも面倒を見てあげられる訳ではないんだけどね~。本当にあの息子さんは・・・(ブツブツ)」
と、愚痴めいたことを言っていた。それは、Aさんの代わりに言ってあげているようにも聞こえ、微笑ましく感じられた。
信頼関係のない介入は逆効果
認知症患者さんを素早く認知症専門医療につなぐことが、さほど重要なことだとは思わない。
それよりも重要だと思うのは、信頼関係の構築だと思っている。
- 信頼している家族が言うなら・・・
- 信頼している友人が言うなら・・・
- 信頼しているケアマネさんが言うなら・・・
<医者-患者間の信頼関係>は、<患者-患者同伴者間の信頼関係>に相関するように思う*2。
上記のAさんは、「信頼しているBさんが勧めたお医者さん」ということで当方を受診し、初回から色々と話をしてくれた。
別に薬を使うこともなく、外来で話を聞くだけでAさんもBさんも満足し、帰って行く。それでいて約2年間、大きな変化はなく時間は過ぎていった。
連れてきたのがBさんでなければ、このようにはいかなかっただろう。全ては、AさんとBさんの間にある信頼関係のおかげである。
信頼関係がもたらしてくれるメリットは様々にあるが、「処方薬の効果増強」ということすら起きることがある。
これも一つの"プラセボ効果"と言えるが、プラセボ効果はバカに出来ない*3。
ただのビタミンCが魔法のように効く頭痛薬に化けることもあれば、乳糖が最強の睡眠薬に変わることもある。
逆のパターンとして、信頼していない医者から貰った薬が本来の薬効を果たせないことがある。
前医が出した薬*4で改善が実感出来なかった方に、しっかりと説明をしたうえで全く同じ薬を処方したところ、「先生、今度の薬は凄くいい!」と言われた経験が複数回ある。
医者に対する不信感で病状が悪化しているように思われるケースすら、少なからず経験してきた。
何故そう言えるかというと、前医に不信感を持って来院されたケースに対して、新たな処方は何も追加せずに話を傾聴して次回予約をとったところ、次の外来でご家族が
「先生、この間の外来のあとから、人が変わったように母が元気になってきたんですよ。これまでは病院ぎらいの人だったのに、今日は病院に行くのを楽しみにして早くから準備していました。」
などと教えてくれるからである。
<困る・困らない>は主観的なことであり、その人が「困っていない」という場合には、少なくとも問われたその瞬間においては、本当に困っていないのだと思う。
そこに、「自分達が困るから」という理由で他者(家族や医療介護関係者)が介入しようとする行為を、普通は”余計なお世話”と呼ぶ。
「ごめんなさいね、余計なお世話をして。それでもみんな、あなたにとって少しでも良いことが出来たら、と願っているんですよ。」
言葉にこそ出さないが、診察室で「ワタシはどこも悪くない!!」と話す患者さん達を前に、自分は心の中でそう呟いている。
認知症に介入するということは、家族や医療介護関係者、みな相応に大きなエネルギーを投入する行為である。折角大きなエネルギーを投入するのだから、出来れば楽しくやりたいし、患者さんにも喜んでもらいたい。
大きなエネルギーを投入する行為に信頼関係が伴っていなければ、その行為は徒労に終わる可能性が大である。これは、介護のみならず事業一般に言えることだと思う。
早期介入早期治療など、急ぐ必要は無い。謂われている抗認知症薬の病状進行抑制効果など、上手くいってもたかだか一年に過ぎない。
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獲得できるかどうか分からない一年を得るために抗認知症薬の内服を急ぐよりも、一年間腹をくくって信頼関係をつくりあげることの方が、よほど大事なことのように思う。
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