自覚が有る無し関係なく、一人で来院する発達障害の方への対応は難しい。
幼少期から発達の特性があったのかどうかは親や兄弟に聞かなければ分からないし、また、社会生活を営むようになってからの様子は、会社の上司や同僚、生活を共にするパートナーに確認する他ないからである。
自閉は雰囲気で分かる。「職場や家庭でも変わり者と思われているだろうな」ぐらいの推測はそう難しくはないが、注意欠陥は一見して気づかないことは多々ある。
セルフチェックシートで自己診断し、「自分はADHDに違いない」と確信して受診される方もいる。
本人の言うことを信用しないわけではないが、過去のどの時点からどのように困ってきたのかを順序よく説明することは、注意欠陥が重度であればあるほど出来ない。そのうち外来は停滞し、待合室からは怨嗟の声が上がる。
「普段のあなたのことを知る誰かと一緒に来て下さい」
と再来院を促しても、それなりに思い詰めてきた人はそこで気持ちが途切れてしまうのか、なかなか次回に繋がらない。
うつや適応障害の背景にある発達障害
うつ病や適応障害といった病名で治療されている患者は、発達障害がベースにあると感じることが多い。
職場でミスを連発して抑うつ的となり、心療内科で「うつ病・適応障害」と診断された患者を一時期診ていたことがあるが、自分が見る限り明らかに注意欠陥があり、また軽度ではあるが自閉の要素も感じられた。
しかし患者は、発達障害について心療内科医から指摘されてはいなかった。
心療内科医は恐らく、職場で上手くいかないという「結果」に対して適応障害という病名を付け、適応できないストレスからうつ病を発症したと解釈していたのだろう。
患者と一緒に「なぜ職場に適応できないのか?」と考えることは、患者が次のステップに進むために重要である。
職場、特にサービス主体の職場に適応できない理由(原因)は、自分が考えるに3つある。
- 同僚や上司に恵まれない
- 配置された部署が適所ではない
- 本人に、現場で必要とされる能力がない
「能力がない」という理由は身も蓋もなく聞こえるかもしれないが、能力がなかったが故に達成出来なかったことなど、我々は子どもの頃から数多く経験して大人になってきたはず。運動しかり、勉強しかり。相手に好かれる能力が無かったと考えれば、失恋だってそうだろう。目指せば何にでもなれるわけではないし、夢はいつかかなうとは限らない。
もちろん、なかにはただ「運が悪かった」という場面もあっただろうが、多くの局面で問われてきたのは単純に"能力"だったと考えるとわかりやすい。
昨今のブームとすら呼べる発達障害の世間への認知拡大により恐らく、「能力がない=発達障害?」という短絡は頻繁に生じているのだろうし、同様に、「発達障害なのだから、職場がちゃんと配置転換やケアをしてあげるべき」という世間的な圧力が企業に生じてもいることだろう。
度を超えたパワハラや同僚からのいじめなどは論外にしても、現場で求められる能力を発揮できないことの理由が、本人の能力の無さに帰せられるよりも、職場の理解の無さに求められる傾向が徐々に強まっているように感じるのは自分だけだろうか。
仕事上の失敗や挫折を経て努力し結果を出せればいいが、努力しているにも関わらず結果を出せないのであれば仕方ない。本人や所属する組織が悪い訳ではなく、仕事における需給のミスマッチである。
努力も出来ずに結果も出せないのであれば、「残念」というしかない。発達障害か否かは関係なく、易きに流れ安住に座すのは人の常である。
「いや、需給のミスマッチではない。発達障害者が力を出せるように配慮しない現場が悪い」とか「能力が無いことを指摘するのは人権侵害だ」という人たちがいるが、「職場が配慮さえしたら、人は本来の力を発揮できるはずだ」と言いたいのであれば、そのような人たちは、能力の違いを前提としない「結果の平等」を求めているということになる。
平等主義の終着点は、結果の平等である。結果の平等を前提とした社会が活力を失うことを、我々は歴史的に経験して知っている。
「能力がない(なかった)」の先を観たい
組織が求める能力と個人が発揮出来る能力には往々にしてミスマッチが発生するものなので、折り合いが付かなければ縁が無かったと考えて別れ、自分の弱点をふり返り、磨きたかった能力に(その時点では)見切りを付け、必要とされる、もしくは世間的にニーズの高い能力を磨き、次のチャンスに備えたい。
生まれつきの能力の違いは誰のせいでもないが、持って生まれた能力を磨くかどうかは自分の問題である。自分の能力を磨く能力を持っていない、自分の能力に気づけない、という場合は周囲が磨いてあげたり気づいてあげられたら良いだろうが、普通はみな自分のことで忙しい。
ある男性は、好きな仕事に就くことは出来たものの、要領が悪く先輩から怒られる日々が続いていた。
悩んだ末に、その原因は「自分が発達障害だからではないか?」と考えるに至り 、病院を受診し注意欠陥の診断を受けストラテラを服用し、集中力を手に入れて怒られずに仕事が出来るようになった。ここからが本当の意味での彼の人生の始まりかもしれない。
別のある男性は、周囲から発達障害ではないかと指摘を受けて渋々病院を受診、自閉症スペクトラムの診断を受けた。処方されたコンサータで集中力を手に入れ仕事のミスは以前よりは減ったが、特にやりたいわけでもなさそうな今の仕事を淡々と続けている。具体的な将来の展望は特にないようだが、彼はどこに向かっていくのだろう。
ある注意欠陥の女性は、就労支援事業所に通いながらも理由をつけては就職に難を示し、薬物治療にも好反応はなく、生活にリズムも付けられず浮上出来ないまま何年も経過している。
「能力がない(なかった)」という現実は、そっと伏せられるべきなのだろうか。それとも、他者が指摘して背中を押すべきなのか。
能力が無い現実を突きつけられた本人の気持ちは?
適切な介入と、ただのお節介との違いは?
求められる限り支援したいと願いつつも、自分が本当に求められているのかについては、時に分からなくなることがある。
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