鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

主治医として、祖母の最後を看取りました。

 主治医としておよそ2年半経過を診てきた祖母が先日、94歳で他界した。

祖母のこれまでの経過

 

祖母のこれまでの経過を、大体の時系列でまとめると以下のようになる。

 

  • 72歳で祖父が亡くなり独居開始。
  • 83歳頃までは毎日のように歩いて墓参りに行っていた。この頃から難聴が気になっていた。
  • 83歳で娘と一緒に関西旅行。まだまだ元気だった。
  • 85歳頃から仏壇に手をあわせることをしなくなった。
  • 86歳頃に「財布がない」。怪しくなり始めた。
  • 87歳でアリセプト開始。その後3mgで維持。
  • 88歳で米寿の祝い この頃には孫の名前があやふやになってきた。同年、孫の結婚式に参列。
  • 90歳からデイサービス利用開始。この後から自分が主治医として関わるようになった。
  • 93歳でグループホーム入居。

 

デイサービス利用が遅かったのは、主介護者(自分の母)の「最後まで自分が看る」という想いがあったからである。母の中では、デイサービスやショートステイの利用を「自分の親を他人に任せるのは恥ずかしいこと」と考えていたのかもしれない。

 

これは理屈を超えた強い想いであったので、あまり当方から強く勧めることはせずに様子を見ていた。

 

徐々に足腰が衰え理解力が低下し、介護抵抗性や暴言、食行動異常といったいわゆる「認知症の周辺症状」が目立つようになって、やっと通所サービスとショートステイの利用が始まった。

 

妻が娘を連れて(祖母にとってはひ孫)様子を見に行ってくれるようになったのも、その頃からである。

 

祖母とひ孫

 

看護師である妻は、母の相談に乗りながら、時に処方薬を潰して再一包化し、また時には祖母と一緒に風呂に入り入浴介助もするという八面六臂の活躍をしてくれた。妻の存在がなければ、恐らく母は途中で燃え尽きていたことだろう。

 

深謝という言葉では足りないぐらい、妻には感謝している。

 

グループホーム入居後

 

グループホームへの入居を検討する直接の切っ掛けになったのは、"排泄の失敗"が増えたからであった。このことが、母の精神的肉体的負担となっていたので、

 

「そろそろ、プロに見守られる生活を選択してもいいんじゃない?」

 

と、折に触れて話はしていた。

 

その後、母が転倒骨折し入院することになり、

 

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主介護者がいなくなったことで、祖母の入所は決まった。

 

その後、自分が信頼しているケアマネさんお勧めのその施設で、祖母はのんびりと暮らすようになった。最後まで、その施設においては目立った周辺症状はなかったと聞く。

 

途中、加齢による免疫力低下から類天疱瘡を発症したが、しばらくの入院生活の後に施設復帰し、これまでと同じように自分の外来に毎月通ってくれた。最早自分のことを孫とは認識できていないようであったが、元気な様子を確認出来るだけで嬉しかった。

 

ある朝、胸をおさえて声をあげた祖母

 

年が明け、施設の方達と一緒に初詣に行った祖母。新年一回目の外来受診時も、普段と特に変わりはなかった。しかし、その1週間後の早朝に、胸をおさえて苦しそうに声をあげた。

 

朝一番で当院に連れてきて頂き、心電図や採血、胸部レントゲンなどを行った結果、心筋梗塞を起こしていると診断した。少しキツそうな表情の祖母に「大丈夫?」と声をかけたが、黙って頷くのみであった。処方の調整を行い、一旦施設へ戻ってもらった。

 

以前から家族間では「何かあっても、入院はせずにホームで最期を迎える」と話し合っていたので、改めてその方針を再確認した。そして、自分が主治医として祖母の最期を看取ることに決めた。その希望をホーム側にお伝えしたところ、快諾してくれた。

 

その後、祖母は時に目を覚まし、少し水分を摂取するかエンシュアリキッドを飲むかして、また眠りに入るというサイクルを繰り返した。

 

1週間が経過し、外来診察中に妻から連絡があった。

 

「お婆ちゃん、呼吸が止まっていると思う。仕事が終わり次第、来て下さい・・・」

 

午前の診察を終え、そのまま車で施設に駆けつけた。

 

そして祖母をみて、"確認"した。

 

その表情はとても穏やかで苦しんだ様子はなく、文字通り眠るような最期であった。

 

これまで数百人を見送ってきたが、肉親の死亡確認をしたのも、そして病院以外で死亡確認をしたのも、いずれも自分にとって初めての経験だった。

 

かつて経験したことのない喪失感

 

子供の頃の祖母の記憶は、「厳しいお婆ちゃん」だった。

 

これは母もしばしば口にしていたことである。しかし同時に、自分を厳しく律する人でもあったようにも思う。自らを律しながら晩年を過ごし、最晩年では少し周囲の助けを得ながら、旅立っていった。

 

72歳で祖父を失ってから、数km離れた墓所まで毎日お墓参りを欠かさなかった祖母。

 

自分が電話をする度に、二人の孫のどちらか分からず「あんたはどっちね?かっちゃんね、たかちゃんね?」と何度も確認するようになっていった祖母。

 

その確認を煩わしく感じ、電話をかけたり会いに行ったりする頻度を減らした過去の自分を思い出し、恥じた。

 

医者である孫として祖母を見送ったことを「お婆ちゃん孝行したね」と言って下さる方がいたが、そのことを誇らしく思う自分はいなかった。

 

納棺の間際で母や妻、幼い娘が咽び泣くなか、自分の脳裏をよぎったのは、子供の頃によく耳にしたこの言葉。

 

  たかちゃん、よく来てくれたね。オロナミンCを飲むね?

 

他愛もない、そして、何故思い出したのか理由もわからないこの言葉も、いずれは記憶の海に揺蕩い消えていく。

 

そのことが分かってはいても、それでもなお、押し寄せてくるかつて経験したことのない喪失感を持て余す自分がいた。

 

そして葬儀からおよそ1ヶ月がたった今、祖母が遺していったものが何なのかを考え続けている。

 

恐らく一生、考え続けるのだろう。

 

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