「今さら医療ミスどうこうを言う気はないのです。ただ、下血で入院するまではあんなに元気だった母が、入院して急に認知症になったと説明されても納得できないのです。」
そう仰ったATさんの息子さんの眼には、涙がにじんでいた。
90代女性 下血で入院した方
90代のATさんは、心臓に持病を抱えつつも元気に一人で暮らしていた。
あるとき、下血を理由にB病院に入院となった。
大腸カメラなどの検査が行われたが、特に大きな問題は見つからなかった。
しかし、高齢で入院したときにはありがちなことだが、ATさんは落ち着きがなくなり帰宅願望を募らせるようになった。こうなると、まず疑われてしまうのが"認知症"である。
B病院の主治医は「認知症だと思いますが、念のために別の病院で頭のMRIを撮ってもらいましょう」と、〇〇病院を紹介した。
〇〇病院の医師は、「MRIでは特に異常所見はありません。年齢よりも脳萎縮は目立たず、軽度の硬膜下水腫と古い脳梗塞の痕跡がいくつか見られる程度です。」と家族に説明した。
その結果を聞いた主治医は、「アルツハイマー型認知症」との診断を下した。そして、ドネペジルが開始となった。
入院から3ヶ月後に死亡
3mgで開始となったドネペジルは、その後5mgに増量となった。
しかしATさんは改善するどころか、一段と落ち着かなくなってしまった。
抑肝散が投与されたが効果はなく、リスペリドンが追加された結果、ATさんは活気が落ちて食事が摂れなくなってしまった。
「別な病気を合併しているかもしれない」と主治医に言われ、総合病院の〇〇病院に転院となったのだが、ATさんの様子をみた〇〇病院の担当医は、全ての内服を中止にした。するとATさんは、再び食事が摂れるようになった。
その後、B病院には戻ることなく、新たな転院先のC病院で心不全を合併し、この世を去った。
B病院に入院した日から数えて、およそ3ヶ月後のことであった。
息子さんとの問答
母親のMRI画像を持って当院を訪れたのは、ATさんの息子さんであった。
上記の経過は、息子さんがB病院にカルテ開示を要求して得られたものとのこと。
「母を診察していない先生にご意見を伺うのが非常識だということは分かっています。」
と前置きしたうえで、
「今さら医療ミスどうこうを言う気はないのです。ただ、下血で入院するまではあんなに元気だった母が、入院して急に認知症になったと説明されても納得できないのです。」
そう仰った息子さんの眼には、涙がにじんでいた。
カルテ開示から得られた情報と、これまで家族の立場で見聞きし考えたことを冷静に話して下さったのだが、驚くべきことに、B病院の名前を出すことは決してなかった。
通常、病院や医師に対して強い不満を持つ家族は、このような時に病院名や医師名を伏せることはしない。
超高齢であったとはいえ、納得のいかない経緯で母親を失った息子さんの悔しさはいかばかりであっただろうかと胸が痛んだ。
それでも、B病院の名前を言うことなく経緯を説明しきった息子さんの理性には、心を打たれた。だからこそ、息子さんの語った経緯は、誇張のない事実に近いものだろうと思えた。
そして、以下の様に息子さんに答えた。
「いまお聞きした経緯とMRI画像から判断するに、お母様が急激に認知症になったとするには、証拠不十分だと思います。
一般的に、高齢の方は入院という環境変化に弱いですし、また、痛みや不安から、一時的に精神状態が悪化してしまうこともあります。これは"せん妄"と呼ばれますが、お母様は急に認知症になったのではなく、せん妄を起こしたのではないかと思います。」
「自分達家族も、そのように考えていました。では、ドネペジル5mg、抑肝散一日3回、リスペリドン1mgという量は、母にとって適切だったのでしょうか?」
と息子さんは聞く。
「薬の適量には個人差があるので一概には言えません。添付文書上は認められている量ではあります。ただし、経験的には、90代の女性に処方するには多すぎるように思います。
『自分であれば』という前提で話しますが、心臓に持病を抱えるお母様にドネペジル5mgを出すことはありません。そもそも、不穏な状態になっている方に出す薬ではありません。また、抑肝散で落ち着く方はいますが、食欲低下をきたすこともあります。リスペリドンは最終手段の一つですが、興奮性の薬剤を減らすか止めてから検討すべき薬です。」
慎重に言葉を選びながら、そう伝えた。
およそ15分ほどのやり取りの後、息子さんは
「よく分かりました。今日の話で、残された家族みんな納得すると思います。母も浮かばれると思います。お時間を取って頂き、ありがとうございました。」
と言い、深々と頭を下げて診察室を後にした。
認知症と間違われやすい「せん妄」とは?
当ブログを読まれている方であれば、Aさんの症状から「せん妄」を疑うことは容易だと思う。
せん妄とは、DSM-Vでは以下の様に定義されている。
A.注意(指向・集中・維持・転導)と意識の障害。
B.障害は数時間から数日間のうちの短期間で発症して、通常の注意や意識からの変化があり、1日を通して重症度が変動する傾向がある。
C.認知における追加的な障害がある(記憶欠損・失見当識・言語障害・知覚障害・視空間能力の障害)。
D.基準AとCにおける障害はもう一つの先行・確定・進行中の神経認知障害によってはより良く説明されない。また、昏睡のような覚醒度の重度な低下といった経過で発症したものではない。
E.病歴・身体診察・臨床検査所見から、その障害が一般身体疾患、物質中毒または離脱、もしくは毒性物質への曝露といった直接的な生理学的結果もしくは多重の病因により引き起こされたという証拠がある。
分かりやすく言うと、『急激に生じる、注意障害と意識障害を中心とした、様々な認知機能障害や精神症状を伴う症候群のこと』である。
もっと分かりやすく表現すると、
『せん妄とは、何らかの原因で、脳が一時的に機能不全を起こしてしまうこと』
である。
認知症の方でも認知症ではない方でも、せん妄は条件次第では誰にでも起こりうる。ただし、認知症の方は、よりせん妄を起こしやすいということは言える。
Aさんは恐らく、
- 入院に伴う環境変化
- 大腸カメラなどの各種検査による、身体への負担(痛みなど)
などが原因となって、せん妄を発症したのだと思われた。
せん妄が疑われた場合、
- 脱水、便秘、感染がないか?
- 最近、新たに始まった薬剤がないか?(特に、ベンゾジアゼピンやオピオイドなど)
- 本人にとってショックな出来事や、急な環境変化はなかったか?
これらを確認し、原因と思われることが見つかれば、まずはその除去に努めることが先決である。
Aさんの場合、大腸カメラで異常が見つからなかったのだから、下血が落ち着いた時点で早期に自宅退院すべきだったのだろう。そうすれば、せん妄を回避出来たかもしれない。
医者を続ける限り、他人事ではない
B病院主治医の対応の拙さを指摘して責めることは容易である。
しかし、過去の自分はどうであったかと考えると、B病院主治医の拙さは他人事ではない。
かつてを振りかえるたびに、ある種の「疚しさ」を感じずにはいられない。
この疚しさは、自分が医師を続ける限り決して消えることはない。
石黒 伸
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「あの頃の自分は無知だったから、しょうがない」と自分を慰めても、それは「あの頃の自分が診ていた」患者さん達にとっては、何の慰めにもならない。
自分が仕事を続けている動機の一つとして、「贖罪」という意識は、何処かに、しかし確実に存在している。
自分に色々な気づきを与えてくれた過去の患者さん達に、今の自分が直接的な恩返しをすることは残念ながら出来ない。
しかし、その気づきから得られた知見で、今自分が診ている患者さん達が良くなってくれたら、それは過去の患者さん達に対する間接的な恩返しになるかもしれない。
自分にとっての仕事における贖罪とは、そういう意味である。