鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

オルタナティブ・ストーリーを生きる。

 

「自分はこういう人間で、家族はこういう人間で、自分が属する共同体はこのようなもので・・・」

 

人はみな、このような物語を編みながら生きている。

 

認知症は、ドミナント・ストーリーを揺るがす

 

一度編まれた物語は通常、時が進むに従って強化されていく。

 

物語の登場人物は当然みな年を重ねていくが、いつまでも心の中にあるのは「料理好きのお母さんに優しいお父さん」というような、かつて確立された物語、"ドミナント・ストーリー"である。

 

その物語を揺るがす事態、例えば認知症の可能性が疑われたりすると、物語の中で安寧に生きてきた人たちは戸惑う。

 

「あんなに料理好きだったお母さんが、全然料理をしなくなるなんて・・・」

「あんなに優しかったお父さんが、大声で怒鳴るなんて・・・」

 

親の今後が気になりつつも、子の立場としては自分達のライフプランは維持したい。

 

ドミナント・ストーリーに戻れないかと焦る気持ちが強ければ強いほど、抗認知症薬を求める気持ちも強くなる。

 

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オルタナティブ・ストーリーへの転換を図る

 

物語は、他者と共有されて意味をなす。

 

物語を続けたいから、失いたくないから、みな孤独を恐れる。誰とも共有されない、一人だけの物語を編み続ける孤独な作業に耐えうる人間は、そういない。

 

誰かと物語を共有するためにはコミュニケーションが必要である。

 

コミュニケーションは会話を通じて為されることが多いためか、会話が通じなくなった時に人は、物語の崩壊を予感する。

 

「物語を維持するために必要な、会話を通じたコミュニケーションが取れなくなることに対する恐怖感」こそが、人々が認知症に対して持つ恐怖感なのかもしれない。

 

認知症の発覚により、今まで家族が育んできた物語は否応なく変化を迫られる訳だが、個人的な経験から言うと、ドミナント・ストーリーへ復帰することは困難である。

 

では、ドミナント・ストーリーが続けられなくなった時点で、人生は終了するのだろうか?

 

そう考える人はいるかもしれないが、自分は違う。

 

『ドミナント・ストーリーで物語を続けられなくなっても、別の物語、"オルタナティブ・ストーリー"への変換を図り、そのストーリーを生きていけばよい。』と考える。

 

認知症を理解し、受け入れ、様々な工夫や五感を動員して、必ずしも会話に頼らないコミュニケーションを成立させているご家族をみると、「このご家族なりの、新たなオルタナティブ・ストーリーを作ったのだろうなぁ」と思う。

 

自分は、認知症患者さんとお付き合いが始まった時点から「オルタナティブ・ストーリーを作り上げていくために、どのようなサポートが出来るか」を考え始める。

 

ストーリーを充実させるには、複数のコンテンツ(ミニ・ストーリー)が必要となるが、

 

  • 優しく話を聞いてくれるえんじ色の服を着た看護師さん
  • いつもニコニコ微笑んでくれる薄緑色の服を着た事務員さん
  • 気軽に相談出来る、黒い格好のお医者さん
  • 馬鹿話で私を笑わせてくれる、青い服のレントゲン技師さん

 

自分を含めた当院スタッフは、このようなコンテンツを意識的に提供しつつ(演じつつ)、新たに作られていくオルタナティブ・ストーリーの中に、出来れば自分達も存在していたいと願っている。

 

診察室に向かって歩いてくる患者さんから自然な笑みがこぼれるのを目にすると、「今のところ、この人の物語の中に自分達は入れて貰えているのかな」と嬉しくなる。

 

一方、おずおずと警戒しながら診察室に入ってくる患者さんをみると、「まだまだ自分達の存在は、この人の中では意味をなしていないのだな」と思い、何か打開策がないか考えを巡らす。

 

ちなみに、「お薬を飲んで認知症の進行を抑制しましょう」というコンテンツを、強調して(優先して)提供することはない。

 

そのコンテンツは、ドミナント・ストーリーを維持しようとすることに繋がるからである。

 

具象と抽象を通して、人は世界を理解する。

 

「暑い・寒い・痛い・気持ちいい」といった具体的な感覚は生まれつき備わっているが、「今日は〇月〇日〇曜日。自分の大切な友人の〇〇さんと〇時に約束をしている。」といったようなことはすべて、後天的に身につけた「抽象化」という能力の産物である。

 

具象のみ携えてこの世に生を受け、年を経るに従って、人生の途中で身につけた抽象化の能力を、人は少しずつ手放していく。

 

認知症とは世界を抽象化する能力を失う病気であるが、抽象が失われても、具象を通じて世界を感じてもらい、具象を通じてコミュニケーションを図り*1、具象の中で新たな世界を作っていくことは、決して不可能ではないと思っている。

 


Holding Hands flickr photo by michaelnpatterson shared under a Creative Commons (BY-ND) license

 

*1:これがユマニチュードの本質だと思う。