鹿児島認知症ブログ

鹿児島でコウノメソッドや糖質制限を実践している脳神経外科医のブログ

EBMは一種の原理主義?

 MedicalTribuneで「我が意を得たり!!」と膝を打ちたくなるような記事を読んだ。

 

medical-tribune.co.jp

 

印象に残った箇所を抜粋してみる。

 

――最近、後藤先生は"EBMという一種の原理主義"という言葉を使っている。これはどのような意味か。
 われわれは、何が正しいかという基準を時代ごとに有している。例えば中世ヨーロッパでは、聖書の中に全てがあり、医学の最適治療もそのどこかに見つかると考えられていた。それがルネサンスを経て大きく変わり、世界を実証的に捉えるサイエンスが生まれた。

 

何が正しいかという基準を「時代ごとに」有している、という指摘は重要である。つまり、基準は時代ごとに変化してきたものだということ。

 

「糖質を摂取すると血糖値が上昇し、インスリンが放出される」といった観測に基づく事象は変わることはないだろうが、血圧やコレステロールの基準値*1など、関係各所の都合でコロコロ変わる。

 

患者集団をランダムに2群に分けて治療法AとBに割り付け、その比較で優劣を決める方法論、すなわちRCTを重視する世界にシフトした。人体も疾病も複雑過ぎて理解できないので、外部からの介入結果で判断しようという方法論である。

 こうして医療介入の有効性、安全性の科学的評価が、患者集団において可能となった。しかし、EBMの対象は患者集団を構成する平均的患者であり、個別患者ではない。薬剤AとBを比較するRCTにおいて49対51で薬剤Bの有効性、安全性が統計学的に証明されれば、薬剤Bが次の標準治療となる。平均的症例に対する標準治療を無限回のRCTで改善するという概念がEBMなのである。

 

RCTの結果からガイドライン(GL)を作成するEBMの考え方は、医療の思想体系の変化であった。英文で発表されたRCTを重視するEBMの思想は、医療の正解は全て論文の中にあるという誤解を招いた

 

ガイドラインやEBMを頭から否定するつもりはない。ガイドラインすら読まない医者はひとまず置いておいて、「エビデンスがないことは絶対しない。それが科学的態度だ」と言うような医者にはなりたくないとは思っている。*2

 

  EBMと医療技術の進歩により「平均的症例」の予後は改善。2群間で統計学的有意差を得るために膨大な症例数が必要となった。たとえRCTで優劣を付けられても、その結果を「目の前の患者」に応用できるか否かが不明となった。平均的患者に標準治療を行うべきという考え方自体も揺らぎつつある。個々の患者は均質でなく、高齢化で個人差は拡大するからだ。われわれは今、個人差を踏まえた個別化医療の実現を迫られている。

 

普段認知症を診ているからだろうが、「高齢化で個人差は拡大する」という説明は頷ける。この個人差までカバーできるようなガイドラインは作成しようがなく、しかしガイドラインがないからといって治療しないわけにはいかない。

 

情報技術が進歩し、膨大な身体情報がデジタル化された世界では、医療の在り方は激変する。医療における専門性の定義を誤ると、医師としての経験の価値は、デジタル化された遺伝子情報や生活習慣情報に基づく保健指導、医療介入に劣ると見なされる可能性すらある。医師が、マニュアルに従って働くファストフードの店員と同じになりかねないと危惧している。

 

 マニュアルさえ熟知してれば済むのであれば、医師がAIにとって代わられる日は、そう遠くはないだろう。

 

――EBMに関しても、医師がGLの奴隷になるのかといった議論があった。
 実はEBM自体、そうした方向に医療を導く考え方だった。われわれは、GLを全例に当てはめる必要はないことを知っている。しかし患者に、社会にそうした理解はあるだろうか。

 考えてみれば、勝者総取り方式のEBMは、多数決や民主主義によくフィットする概念だった。医療者以外にも速やかに受け入れられたのはそのためだ。同時にEBMは、メガファーマのマーケット戦略にも有用で、グローバル資本主義との相性も抜群だった。新薬が生まれ、RCTでエビデンスがつくられ、GLに反映される。今やこの流れは、薬の販売戦略に完全に組み込まれている。半面、RCTには莫大な費用がかかるため、古い薬、安価な薬のエビデンスは出てこない。EBMの当初の理念は変容してしまったと言えよう。

 

薬には販売戦略があり、その戦略に沿うようにせっせと製薬会社主導でエビデンスが積み重ねられ、そのエビデンスを元にガイドラインが作成されていく。壮大な仕掛けである。大規模臨床試験を行う金銭的余裕があるのは製薬会社であり、民間病院や大学病院の医師が主導して無償で行えるものではない。

 

製薬会社は自社製品の売り上げに関わることなので、よい結果が出るように必死になるのは当たり前。必死になりすぎてやらかしてしまったのが、有名な「ディオバン事件」である。

 

www.ninchi-shou.com

 

  医師の手が触れることの治療効果や、患者の表情を見ることの診断的意義はデジタル化できない。そうした仕事を大事にして、"病気や患者の分からなさ"と悪戦苦闘することが、マニュアル化の対極にあるのだ。

 僕は、若い医師にRCT論文やGLを読むことを勧めない。「それより教科書で病態生理を学びなさい」と言う。明日更新されるかもしれないGLを追いかけても、マニュアルワーカーにしかなれない。医療の専門家としての思想や世界観を鍛えておかないと、環境の激変には対応できないと考える。

  

蓋し、名言である。

 

「病気や患者の分からなさと悪戦苦闘すること」こそ、医師という仕事の醍醐味のように感じる。ハタと困った時に自分を助ける武器になるのは、学生時代もっとも疎かにしていた生理学や生化学、解剖学だったりするのだが、その都度かつての自分の不勉強さを思い出し苦笑いしながら、教科書に手を伸ばす日々である。

 

 

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*1:ただの統計処理上の結果を、絶対的な基準と信じている人は多い。

*2:いわゆる"エビデンス〇鹿"